第37話 悪魔の手のひらの上
箱には前に見た時と変わらず、ぎっしりと詰まった手紙が入っていた。
それは別にどうでもいい。
重要なのは、開けた瞬間に感じた香りだ。
香水のような、そんな匂い。
その身をまとっている存在を、俺は知っていた。
でも、この手紙にその匂いがついている理由が分からなかった。
どうして今まで気づかなかったのだろうか。
不思議なぐらいにこの手紙には、悪魔の気配が色濃く残っていた。
でもそれはおかしい。
手紙を送ってきたのはストーカーのはずだ。
悪魔はこの手紙を触ってもいない。
それなのに、どうして。
俺は分からなくて、手紙を前にして固まるしか無かった。
これは、どういうことだろう。
もしかして俺の知らない間に、勝手にこの箱を開けて中身を見たのか。
そうだとしたら、残り香が移ったとしても不思議じゃない。
これが理由だとすれば、勝手に見たというのはあるが、大きな問題ではなかった。
でも、俺はその一番平和であるはずの解決法を受け入れられない。
その可能性よりも、俺は別の考えが浮かんでいた。
そっちの方が有り得ないという考えなのに、俺は真実じゃないかと思ってしまう。
この手紙を送ってきたのは悪魔で、ストーカーに脅えた俺をタイミング良く助けるために、計画したことなんじゃないか。
まんまと思惑通りに、俺はあれがきっかけで悪魔に気を許すようになった。
そしていつの間にか好きになっていて、一緒に堕ちてもいいかと思うようになっている。
完全に悪魔の手のひらの上で踊らされていた。ちょろすぎて悪魔にとっては遊びにもならなかっただろう。
これが事実だとしたら、俺は、俺はどうするべきなのか。
一つを疑ってしまえば、何もかもが怪しくなる。
あのおまじないは誰が流行らせたのか分からないし、急激に広まった。
あんな訳の分からない、何のためにやるのかおまじないを考えつくのは悪魔の他にいない。
広めた理由は不明だけど、もしも俺が実行していたとしたら、悪魔にとって何か利益になることが起きた可能性が高い。
影沼の時だって、タイミングが良すぎた。
ああいう癖の強い悪魔が、簡単に手を貸すとは考えられない。
前々から準備をしておいて、俺のピンチの場を演出した。きっとそうだ。
もしかしたら俺が殺されたかもしれないのに、自分は高みの見物をしていた。
本当に、俺のことが好きなのだろうか。それすらも疑わしくなる。
全てを疑った俺は、悪魔のことが信じられなくなっていた。
「翔平、迎えに来た」
俺の気持ちが不信感に染まった中で、ちょうど悪魔が現れた。
その顔は連れていく気満々だったが、俺の顔を見て止まった。
「何があった? 誰にやられた?」
そこで自分に非があると思うのではなく、まっさきに第三者の可能性を考えるのだから、自信に満ち溢れていて清々しい。
俺は表情を変えず、部屋の中に隠してある物の位置を確認した。
そして変わらない位置にあるのが分かると、悪魔と目線を合わせるように立ち上がった。
手を差し伸べるとでも思ったのか、嬉しそうに両手を広げてくるが、その胸の中に飛び込むわけが無い。
「……翔平?」
苛ついた様子に、焦っているのを悟った。
でも表面上は普段通りにしているから、そこはさすがである。
「……今まで、俺に何をしてきたか、言えるか?」
出来れば否定して欲しかった。
本人が違うと言ってくれれば、俺はそれを信じるために努力しようとしただろう。
でも悪魔は顔をしかめて、そして黙り込んだ。
それは答えを言っているようなものだった。
「はは……本当に俺は操りやすかったんだろうな。簡単に信じるし好きになった。これで満足か?」
「…………翔平」
悪魔がうろたえた声を出した。
俺が涙を流しているからだろう。
ポロポロと涙が止まらず、それを拭うこともしなかった。
「楽しかったか?」
「違う……」
「違わないだろう。俺は、怖かったし、死ぬかと思うこともたくさんあった。そのどれもが仕組まれてて、その首謀者と知らないままに好きになっていたなんか、なんて馬鹿なんだ。はは……本当に馬鹿だ」
自分の不甲斐なさに、それこそ死にそうだ。
「俺のことを好きだと言っていたよな。それで堕としたい、って。本当に好きなのか? なあ。俺は好きだったら、その人のことを傷つけたくない。そういうものだろ、普通は」
「普通、ね。俺はこんな風になった時点で、普通なんかじゃない」
苦しそうな声に、悪魔も苦しんでいるのだと思ったが、それでも一度冷めていた心は変わらなかった。
俺はゆっくりと悪魔に近づいた。
諦めたとでも考えたのか、悪魔がまた腕を広げた。
胸の中に飛び込んだ俺は、その途中で手にしていたナイフを突き立てた。
あまりにもあっさりと、ナイフは体に沈み込む。
これを手に入れたのは、悪魔を殺すためだ。
上手くいくとは考えていなかったけど、もしもの時のために手に入れておいた。
手応えの無さに、俺は失敗したのかと望みが失せかけた。
でも悪魔の服に広がっていく赤い血に、すぐに上手くいったと口元に笑みが浮かんだ。
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