第8話 綺麗な庭
コンビニのアルバイトは辞めた。
桜さんが死んだという話を聞いて、親が辞めるように言ったのもあるし、俺自身も彼女の思い出の詰まった場所で働き続けられる余裕が無かったからだ。
辞めると伝えた時、店長は引き止めてこなかった。
むしろ安堵しているように見えて、お礼の言葉もまともに言えずに逃げるように店を出て行った。
俺も内心ではほっとしていたから、すんなりと辞められて良かったのかもしれない。
アルバイトを辞めて、俺の生活に平穏が戻った。
あの日から悪魔はまた姿を消し、どんなに名前を呼んでも現れることは無かった。
あれを幻だというには、キスの感触が生々しかった。
相手に好き勝手に口内を荒らされる感覚は、二度と経験したくない。
思い出すたびに背筋を何かが駆け巡って、それ以上考えたら駄目な事態になりそうで、最近は出来る限り忘れるように努力している。
でも、無駄なあがきかもしれない。
桜さんの件があり、俺は人と関わるのが怖くなった。
俺と関わるだけで、好意的な感情を抱くだけで、悪魔はその人をターゲットにする。
そう思ったら、誰かと話すことさえも出来ない。
元々、涼介が死んでから、誰も話しかけてこなくなった。
腫れ物に触るように、存在を消し去られたようだった。
涼介がいなかったら、俺は何の取り柄もない人間だ。
今まで二人で過ごしてきたツケが回ってきた。
それでも学校に行くのを止めないのは、行く途中に楽しみがあるからだった。
道を歩いていると、とある家の庭が視界に入る。
そこの住人を見たことは無いのだけど、きっと素晴らしい人なんだと思う。
丁寧に手入れされていて、いつ通っても色とりどりの花が綺麗に咲いている様子は、ささくれだっている俺の気持ちを癒してくれる。
足を止めたい気持ちを我慢して、通る時は自然に見えるように、隅々まで観察するように眺めるのが日課だった。
いくら悪魔だとはいっても、花をどうこうするわけがない。
人間と関わるのが怖くなった今は、その数分にも満たない時間が俺には必要なのだ。
その日も、いつも通り花を眺めながら家の前を通ろうとした俺は、いつもはいないはずの人影に気がついた。
人間の気配に警戒心を強めたが、すぐにそれを緩める。
人影の正体は、おばあさんだった。
歳は七十代ぐらいで、背が低くぽっちゃりとした優しそうな雰囲気を持っていた。
腰を曲げながら草むしりをしているのを見て、確かにあの人なら素晴らしい庭を作ることが出来そうだと納得した。
麦わら帽子を被って、首にタオルを巻き、忙しなく動きながらも、とても楽しそうだ。
それに、庭に向けている瞳からは、花々を慈しんでいる気持ちが伝わってきた。
話しかけることは出来ないけど、綺麗な花を育てている主を知れて良かった。
そっと横を通りながら、俺は鼻歌を奏でたいぐらいにテンションが上がっていた。
そんな俺に同調するかのように、塀の上を歩いていた猫がにゃあと可愛らしく鳴いた。
◇◇◇
「随分と今日は、機嫌がいいじゃないか」
「涼介!?」
久しぶりにいいことがあったと思っていたのに、今日は厄日だったらしい。
機嫌よく帰ってきた俺を、すでに部屋の中にいた悪魔が出迎えた。
完全に油断していて、驚きから腰を抜かしそうになった。
「おいおい。大丈夫か?」
椅子に勝手に座っていた悪魔は、俺の反応におかしそうに手を差し伸べてくる。
「何でここにいるんだ」
差し伸べられた手を振り払うと、俺は威嚇した。
でもそれは、相手にとっては子猫がたわむれているのと同じらしく、怯むことなく椅子の上で優雅に足を組んだ。
「最近はいい子にしているから、褒めてやろうと思ってな」
「別に、お前のためにやっているわけじゃない」
「つれないな。一人は寂しいだろ。意地張ってないで、早く俺のところまで堕ちてこい」
まるで、ちょっとそこまでぐらいの気軽さで提案してくる。
悪魔からすれば、未だに拒否し続けている俺がおかしいのだろう。
「言っただろ。お前の好きになんかさせないって。お前を選ぶことなんて絶対に無い」
「どうしてだ?」
「お前が悪魔だからだ」
どんなに俺への行為を示されても、どんなに甘い囁きをされても、絶対に意志は覆らないという自信があった。
「へえ……悪魔だから。それが理由だとしたら、俺にも勝機はありそうだ」
「どこが?」
「俺よりも酷い人間なんて、たくさんいる。そんな人間の邪悪さを目の当たりにすれば、こっちに堕ちた方がマシだと思うだろう」
自信満々の様子に、なんだか嫌な予感がした。
「今度は何を企んでいる?」
「何を企んでいるって、人聞きの悪いことを言うな。この前みたいに、直接的には介入はしない」
「じゃあ、どうするつもりなんだ」
「なあに、俺が邪悪だと判断した人間に、きっかけを与えてやるだけだ。実際にことを起こすか決めるのは本人。普通ならば何も起こらない。人間の方が良いって言うのなら、何も起こらないと信じられるだろう?」
「お前が何もしないっていう保障はない」
「お望みなら契約を交わしてもいい。直接的に接触して、何か相手にとって不都合なことはしないって」
それなら契約するべきかと迷い、慌てて考え直す。
こうは言っているけど、契約が俺を騙すものの可能性は高い。
安易に契約すると言って、魂を持っていかれでもしたら、後悔しても手遅れになる。
「契約はいい。でも信じているわけじゃないからな」
「手厳しいな。まあ、どちらにしても早く諦めた方がいい。人間の醜さを知って狂う前にな」
「お前なんかよりは、絶対にマシだ」
「……すぐに分かるさ」
不穏な言葉を残し、悪魔は消えていった。
一人残された俺は悪魔の残り香を感じて、それを取り除くために、寒い中だったけど部屋の換気を始めた。
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