第18話 夏の気配


「よし、これで最後」


 遅れていた仕事も一通り済んで、テラスで休憩しようと立ち上がる。


 この1ヶ月でオフィスの状況は一変した。山田さんと坂野さんが居なくなり、新しいスタッフが充分過ぎるほど配置されて、いつも向かいの席にいた草野君も、もういない。


 教えられる人が居なくなったことで、草野君は一つ下の階にある企画部門に異動していった。


 そして私も……キャリアコースへの転身が決まり、もうすぐここを離れる事になる。


 出来るなら仕事の内容は変えたくないし、キャリアコースに行くと教える機会が減ってしまう……断ることもできたけど。


 “経験してみて初めてわかることがある”


 草野君のあの言葉に背中を押された。


 昨晩の大雨を最後に梅雨が明け、テラスには夏の陽射しが降り注いでいる。


 もう、ここで一緒に休憩する事も無いんだろうなぁ……。


 あの日以来、話していない彼のことを、今日はなんだか考えてしまう。どうして嫌われたのか、あの態度の理由はわからないまま。


「笹山さん! 」


 はぁ……考えすぎて幻聴なんてどうかしてる。


「笹山さん! 」


 幻聴……だよね……。


「草野君!? 」


 草野君だ。振り返ると……本物の草野君がこっちに向かって歩いてくる。


 何か、知らない感情が込み上げる。懐かしさとか、嬉しさとか……色々。


 会いたかった、心が騒いでる。


「おつかれさまです」

「おつかれさま」


 この間、機嫌が悪かった日とは違って、ワンコみたいな目をくりくりさせていつも通り。


「やっぱりここは気持ちいいですね」

「うん……休憩? 」

「はい、ちょっとだけ休みたくて」

「そっか、仕事忙しい? 」

「はい、こんなに忙しいとは思わなかったです。帰りも遅いし」


 空を眺める横顔は、少し疲れて見える。寝癖……ついてるし。


「笹山さんは? 忙しいですか? 」

「後は、引き継ぎだけかな。今より来月からのが忙しいかも」

「そうなんですね。すごいな、研修終わると来年にはサブですか」

「それは優秀な人だけ。今まで管理職なんて考えてもなかったし、心配なんだ」

「大丈夫ですよ、笹山さんなら。応援してます」


 何でだろう、いつも通りの会話なのに……緊張する。久しぶりだからかな。

 

 会話が途切れた。


 静かな時間……いつもみたいに空を眺めてると思ったのに……横顔を眺めようとしたその時、視線が合う。


 草野君の瞳は、じっと私を見ていた。

 

 捕らわれて……動けない。


「この間はすみませんでした」

「いいのいいの、大学と両方で忙しいもんね。気にしてないから大丈夫」


 雰囲気を壊すように、わざと明るく答えて視線をそらす……それでもまだ、草野君は私を見つめている。


 なんでこんなにドキドキしてるんだろう。見つめられて恥ずかしくて、顔が熱くなってくる。


 耐えきれなくて俯く。


「暑いですね」

「う、うん……もう夏だね」


 普通にしなきゃ……向きを直して草野君と一緒に、空を見上げる。


 真っ青な……雲ひとつない、青空。


 チラッと横顔を見た瞬間、ドキンと激しく胸が高鳴った。


 鼻筋の通った、きれいな横顔。


 私……草野君のこと……。


「そういえば、花火って見たことあります? 」


 くりっとした瞳が私を見る。


「うん、人工のはあるよ。綺麗だよね」

「本物は? 今度、花火大会があるって聞いたんですけど、行ったことありますか? 」 

「小さい頃にあるかなぁ。確か2年に一回あるんだよね」

「一緒に行きません? 」

「え……? 」


 いきなりの誘いでびっくりしていると、そんな私を甘えるような瞳の草野君が、また見つめている。


「私と? 」

「はい、笹山さんと。一緒に行けたらと思ったんですけど……だめですか? 」


 重なる視線。


 真剣な、強い眼差し。


 世界中の……音が消える。


「うん……でも予約とかいるんじゃない? もう間に合わないかも」


 花火、本物は音が大きくて苦手なんだけど、その瞳に見つめられると……だめだな。何でも“いいよ”って言ってしまいそうになる。


「ほんとに!? よかったぁ~!! 俺、一度もちゃんと花火見たことなくて」


 うれしそうに弾ける笑顔。


 さっきの強さはどこかに消えて、いつも通りの草野君。


「楽しみだな」


 心の底から嬉しそうな笑顔に、私まで楽しみな気持ちになるから不思議……瞳を輝かせて花火を見る草野君、なんだかちょっと浮かんでくるみたい。


「予約取れたら連絡します」

「うん」


 あの日、交換だけして来ることはなかった草野くんからの連絡。もし花火に行けたら……その先を期待したりしても、いいのかな。


 寝癖もついているし、疲れてはいそうだけど、嬉しそうな草野君の様子が私も嬉しかった。

 






 その日の夜。


「はるちゃんはるちゃん! 」

「タマ、どうしたの? 」

「電話だよ? 草野海斗君っていうの? 新しいお友達」


 タマが草野君からの電話を知らせてくれる。


「もしもし……草野君? 」

「笹山さん! 俺です」

「おつかれさま、仕事終わったの? 」

「はい、さっき終わって今帰り道で」

「そっか、遅くまで大変だね」

「それより聞いてください! 予約取れたんです」

「えっ? 予約……? 」

「花火! 」

「うそ! 本当に!? 」

「本当です! 今度の土曜日18時からなんで、17:30に駅前で待ち合わせしませんか? 」

「うん! わかった。17:30に駅前ね」

「楽しみに……してます」

「うん、私も」

「じゃあ……また」

「うん、またね」


 土曜日、会えるんだ。


「はるちゃん! 」


 草野君との通話を終えた途端、タマの声が聴こえる。


「もしかして花火行くの? 」

「うん、一度観てみたいんだって」

「はるちゃん、花火の音苦手じゃなかった? 」

「まあね。でも小さい頃の話だし、大丈夫でしょ」

「ふ~ん……そっかぁ~……」


 こういう時のタマはちょっと面倒くさい。絶対、草野くんとのこと勘繰ってる。


「な、何? 」

「わかったぁ! 海斗君のこと好きなんだぁ」

「どうしてそうなるの! 違うって、仕事で知り合って仲良くなっただけだってば! 」

「だって、ずーっとニヤニヤしてるし、すっごいうれしそうだよ? そんなはるちゃん見たことないもん。それに、海斗君の為に苦手な花火、付いていってあげるんでしょ? 」

「あー、もう! タマうるさい! からかわないでよ! 」

「ごめんごめん。花火いつだっけ? 」

「今週の土曜日、17:30に駅前で待ち合わせだって……」

「はるちゃん! 土曜日って、あと3日しかないよ! 」

「うん、3日後だね」

「準備しなきゃ! 何着ていくの? 」

「えっ……この間、買ったのはどう? 」

「あれ? あれもカッコいいけどせっかくだから準備しようよ。はるちゃんの大事な日だから頑張る! 」

「張り切らなくていいからね、タマ! ふつーに、いつも通りでいいんだからね」


 張り切ると、最新のとんでもないコーディネートを用意する癖のあるタマをなんとかなだめる。


 それにしても……あと3日しかないんだ。ドレッサーを開けて、鏡に写る自分を見つめる。


 草野君の目に、私はどう写っているんだろう。ちゃんと女の子に……見えてるのかな。


 今日の草野君、今までとまたちょっと違った。


 あんな風に見つめられたら……どうしていいかわからない。草野君は私の事どう思ってるんだろう。


 好きになっても……いいのかな。


「はるちゃん? 」

「ねぇ、タマ……」

「ん? どうしたの? 」

「男の人って……どんな女の子が好きなんだろう。やっぱり樹梨亜みたいに綺麗だったり、夢瑠みたいにかわいい方がいいよね」


「おい! 」

「どうしたの、タマ、そんな声出して」

「開けろよ! 寝てんのか! 」


 返ってきた声はタマじゃなくてなぜか兄貴。


「何? 」

「何じゃねぇよ……お前が頼んだんだろ。rubbleの音源」

「データじゃなかったんだ、本格的」

「音の良さが違うんだよ、聴いてみればわかる。街で流れてるのとは違うから」


 趣味の話だからかな、今日の兄貴はいつもより機嫌が良さそう。


「返さなくていい、コピーしたから」

「うん、兄貴さぁ……」

「なんだよ」

「どんな女の子が好き? 」

「は!? 」


 いい歳して顔真っ赤になりながらむせてる……意外と純情なんだ。


「お前、いきなり何聞いてんだ」

「んー……気になっただけ。口が悪い、性格が悪い、ご飯にがっつく女の子は好かれないんでしょ」

「面倒くせぇな、気にしてたのか」

「そういうわけじゃないけどさ……」


 珍しくまともに会話しようとしてあげたのに、答える素振りもなく部屋に戻ろうとする兄貴。


 やっぱり嫌い。


「そのままを見せられない男なんかやめとけ」


 背中がなんか言った。


「口が悪くても、性格悪くても、飯にがっついてもそのままのお前がいいって笑ってくれる奴じゃなきゃ……一緒にいてやる価値なんかねぇ」


 どんな表情で言っているかも見せないで、カッコつけて去っていくバカ兄貴。


 そのままのお前がいい……か。


「全然、参考になんないじゃん。ねぇタマ~、rubbleの音源だって。今から聴いてもいい~? 」


 気にするのはやめて今は、楽しいことだけ考えていることにした。

 

 海斗君……か。







 とうとう気づいてしまった。海斗も……そして遥も。


 “引き離せば更に強く引き合うのが男と女”


 英嗣の言葉は現実となり、遥と海斗の心は更に強く引き合っていく。


 もう引き返すことは出来ない。


 運命の環は今、確かに廻り始めた。

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