第16話 恋の芽生え
「笹山さん、大変です!! 」
「どうしたの? 」
夏休み前、一年で一番忙しい時期。今年は急に山田さんが辞めたせいで特に慌ただしくて、あれ以来、草野君との時間はないまま。
そんな忙しさもあと少しで落ち着くと思っていたある朝、出勤した私の元に草野君が焦った様子で走ってきた。
「坂野さんが! 坂野さんがご自宅で倒れられて救急搬送されたそうです! 」
血の気が引くのがわかった。
草野君に言われるまま、急いで管理課に走り、ロイドさんから詳細を聞く。坂野さんは意識不明の重体で、復帰できるのかすらわからない……思った以上に深刻で、重篤な状態らしかった。
「リーダー代行をお願いします」
「私がですか? 管理職研修も受けていませんし、サブ業務すら経験がなくて」
「緊急事態です、社長から許可が。管理IDをお渡ししますので3班リーダーの倉田さんにサポートしてもらってください」
まさに青天の
常識で考えたら有り得ない……どうしよう。私に出来る訳ないのに。
「笹山さん、どうでしたか? 」
管理IDを手にとぼとぼとオフィスに戻る。草野君が不安そうな視線を向けるけれど……なんて言ったらいいかわからない。
誰もいないデスク。
私がやらなきゃいけないほど誰もいないんだ。ここには私と草野君だけ。
「笹山さん……大丈夫ですか? 」
草野君の瞳が、私を覗き込む。心配してくれているのが、伝わってくる。
「坂野さんの代わり、やらなきゃ……山田さんもいないし……」
「俺でよければ何でも言ってください、これがあるんで出来ると思います」
前見た時より分厚くなったメモ帳を見て心が決まる。
「よし! しばらく大変だけど応援来るまで頑張ろう! 」
「はい! 」
何日かすればきっと、応援のスタッフが来てくれる。だからそれまで草野君と頑張ろう。
草野君に出来る日常業務を全て頼み、坂野さんのデスクに貼り付いて指導を受ける。
頑張るとは言っても生半可な事じゃなかった。社内の業務だけでなく、対外的な業務や幹部への提出資料……今までの私がのんびり働いていられたのは、坂野さんがこういう仕事をして、山田さんがそれをサポートしてくれていたからだって……そんな当たり前の事に、今更気付いた。
「笹山さん、8件フォロー依頼来てます」
「はい」
「監査用の動画提出なんですが、期限が明日までです」
「抽出済んでるから送ってもらえる? 共有データに入ってるんだけど……」
「はい、確認できました。送っておきます」
今まで聞いてきた坂野さんと山田さんのやり取りを私と草野君がしている。
教わった業務を手探りでこなしている内に、時間は過ぎる。草野君は撮影ブースに行き、残った私は一人で仕事の山と格闘し続ける。
他チームのスタッフもいるのに、まるでオフィスに一人みたいな感覚……そのまま仕事に没頭していたら、いつの間にか昼過ぎになっていた。大きな溜め息をつきながら、自分の席に戻ってくる。
やっぱりここが一番落ち着く。
坂野さん……大丈夫かな。いきなり倒れて意識不明の重体なんて、あるんだ……まだそんな年齢じゃないはず。
確か……30代だったような……坂野さんの事を考えているうちに、意識は遠のいていった。
「わっ!! 」
身体がガクッと傾いて気がつくと、オフィスは夕暮れ色に染まっていた。
もしかして……寝てた!?
確か、席に戻ったのが16時頃で……今は……もう18時!?
固まった腕を解きながら慌てて身体を起こすと、カーディガンが落ちた。
椅子の背もたれに掛けておいたはず……いつの間に肩に……立ち上がって拾う。
みんな帰ったのか、オフィスにはもう誰もいない。
うたた寝なんてしてる場合じゃないのに……ぼんやりデスクを眺める。
あれ……?
デスクには買ってきた覚えのないレモンティー、その隣には小さな箱が置いてある。
箱を手に取ると、何かがはらりと落ちた。
“急に大学に戻らないといけなくなりました。忙しいときにすみません。よかったら食べてください”
草野君の字だった……レモンティーも、この箱も草野君が……。
そっと箱を開けてみる。
入っていたのはチーズタルト……わざわざ買ってきてくれたのかな。お昼を食べていないお腹が鳴って催促をする。
「いただきます」
おいしい……甘さが疲れた身体を、そっと癒やしてくれる。
ふっと、あの笑顔が浮かぶ。
いつも優しく、私の心を癒してくれる。
一緒に……食べたかったな。
タルトを口に運ぶたびに、彼の優しさを感じていた。
頭は疲れていても幸せな気持ちで家に帰ると、深夜なのにリビングに全員集合していた。
「みんな揃うなんて嬉しいなぁ」
そう言いながらお母さんお手製のおつまみをお供に晩酌してるお父さん。
「そうねぇ、もう一品作っちゃおうかしら」
妙にテンションが高くて嬉しそうなお母さんに、黙って食べてる兄貴。
「今日はね、みんなから同時に遅くなるって連絡が入ってきて、面白かったのよ。テレパシー送り合ってたのね」
「テレパシーではないけどね……」
今日の晩ごはんは肉じゃがに焼き魚みたい。兄貴のを覗くと、お母さんが立ち上がってキッチンに……腹ペコな私も後に続く。
「二人とも残業なんて、大きくなったなぁ……この間までこ~んなにちっちゃかったのに。そのうち結婚なんかして家を出てくんだろうなぁ……寂しいなぁ……」
出た……疲れて帰ってきた日は必ず泣き上戸になるお父さん。さっきまで笑ってたのに、もう涙ぐんでる。
「遥のウェディングドレス姿なんて見たくないなぁ~……」
「また出た」
ため息交じりの兄貴に心の中で、珍しく同意しながらご飯をよそう。でも何でいきなり結婚なんて。
「武田さんの娘さん、結婚するんですって」
「なるほど」
武田さんはお父さんの同僚で、すっごくかわいい娘さんがいるってよく家でも話題になってる人。
結婚かぁ……美味しそうな肉じゃがと焼き魚を持って自分の席へ。
「いっただきま~す」
ホクホクのじゃがいも、ジュワッと滲み出るお肉、この食感は粉から作るクッカーとはやっぱり違う。
「当分無理だろ」
聞き捨てならない台詞が聞こえた。鼻で笑うような兄貴の声……何かのスイッチが入る。
「はぁ!? 今なんつった」
「口も悪い、性格も悪い、親の作った晩飯がっついてる奴に結婚なんて無理だろって言ったんだよ! 」
「はっ! 話し下手で彼女どころか友達もできない兄貴に言われたくないね! 」
「てめぇ!! 」
「事実を言っただけです~」
「てめぇ……ざけんなよ」
「何言ってんだか聞こえないんですけど~」
「二人とも止めなさい、子供じゃないんだから」
お母さんが静止するけど、突っかかってくる兄貴が許せない。
「だいたい、世の中の男性代表みたいに言わないでくれます!? 私の事いいって言ってくれる人だっているんだから」
「あら、いるのね!? ねぇ、だれだれどんな人? 」
しまった……お母さんが目を輝かせ始めた。
「お母さん、最近ね、好きな俳優さんがいるの♡
怒りが削がれる。
「
「そう、カッコいいの! で、遥の彼はどんな人? 」
「ま、まだ彼じゃないってば」
「まだって事はいるのか……」
兄貴まで食いついてくるけど……しまったな、言うつもり無かったのに。
「い、いないってば! 」
「ちょっとお父さん、起きてよ! 遥に彼氏が出来たんだって! 」
「ん~……からし? 」
呑みすぎて机に突っ伏して寝てるお父さんを起こすお母さん、淡々と晩ごはんを済ませる兄貴……家って、変な家族かも。
草野君……驚くかな……ふっと浮かんだ考えに恥ずかしくなる。まだちょっと仲良くなっただけなのに何を意識して……。
「顔真っ赤だぞ」
兄貴はすれ違いざまにそれだけ言ってリビングから逃げていく。
「もう……お父さんったら、ここで寝ないで部屋で寝てよ」
両親を横目に焼き魚をつつく……口が悪い、性格が悪い、お母さんの作ったご飯にがっついてる私……草野君は嫌かな。
会いたいな……お父さんとお母さんを見ながら、そう思った。
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