臨戦態勢一歩前

 一番最初のブロックであるAブロックの、第一試合。

 誰がどう考えたって、一番最初の試合であるに決まっている訳で。僕は開会式の翌日にコロシアムのメインスタジアムにやって来ていた。


 選手や関係者のみが入れるという通路を通り、用意された控え室の中に案内された僕は、この後行われる試合の最終準備を進めていた。周りには、僕と同じように自分の出番を今か今かと待っている戦士たち。皆、緊張した面持ちでそれぞれ準備に励んでいた。

 他の選手と談笑している人、何やら手帳の中身を何度も確認している人、祈りを捧げる人や、備え付けられているテレビの前に鎮座する人等々。


 僕は床に正座をして背筋を伸ばし、今朝手入れをした刀の刀身を鞘から少し出して見る。刃こぼれは勿論、曇り一つない美しい刀身に映る自分の顔を見る。多少浮かない顔をしているようにも見えるが、まぁ問題は無い。たかがこの程度で調子に影響は無いし、あったとしても微々たるものだろう。


 それに、気持ちが落ち込んでいるから勝てませんでした、なんて許される訳もない。


 チンッ、と言う鍔鳴り音を響かせ納刀する。いい音だ。少しだけ気分が落ち着く。これ以上落ち着いてどうするんだと言う話だが。


 刀を左側に置き、手を膝の上に置いて目を閉じる。ゆっくりと深呼吸。身体の中から、空気を全て抜くくらい、大きく大きく。



「……よし」



 戦闘用に気持ちを作り終えた僕は、一言そう呟いて刀を持ちながら立ち上がる。その刀は、特注のズボンに付けてある刀を入れる用の輪っかに通す。ベルトを通す輪っかと近いから、間違えないよう注意。



「まもなくAブロック第一試合の時間です! 出場選手の方はこちらまで来てください!」



 丁度僕が一通りの準備を済ませたところで、入口の方から大きな声を出す、二十代くらいの若い男性の係員さん。僕のことを呼びに来たようだ。自分の荷物を鍵付きのロッカーの中に入れ、鍵をガチャンと閉める。そのまま、係員さんの所へと向かう。若い男性の係員さんは、僕の姿を確認してほっとしたように胸を撫で下ろしていた。



「良かった……たまに直前に怖くなって逃げ出したりとか、緊張してトイレに行ってしまう方もいらっしゃるので、もしそうだったらどうしようかと……」

「あ、はは……大変ですね」

「ま、それも仕事ですので。さて……アノン・カンパネルラさんですね? お手数ですが、参加登録の際にお渡しした、ファイターチケットの提示をお願いします」



 係員さんに促されるまま、僕はポケットから自分の顔写真が載っているファイターズチケットを提示する。これ一つあれば、この国での身分証の代わりにもなる優れものだ。出場登録をした際についでに作成した。


 手渡された係員さんは、そのファイターチケットを専用の機会に差し込む。一瞬後に、ぴぴぴ、というかわいらしい音が鳴る。



「はい、確認できました。会場までご案内いたします……トイレとか、大丈夫ですか?」

「大丈夫です……それじゃ、お願いします」



 やけにトイレのことを心配しているが、刀の手入れをする直前には済ませておいた。緊張でお腹が痛くなる、ということも僕はないので、大丈夫……な筈だ、多分。


 僕の返事に満足そうに頷いた係員さん。こちらですと元気に先陣を切ってくれた。その背中を追うように控室から出て行く。長い廊下を歩いていると、だんだんと周りの空気感が冷たく、鋭くなっていくような感覚を覚える。


 ……これから、僕はこの通路を何回歩くことになるのだろうか。一回二回、だけではなく、十回二十回、百回千回と歩けたらいいな、なんてことを考えてみたりする。『夢』というほどではないが、なったらいいな、位には思っておこう。



「……落ち着いていますね。デビュー戦は、過剰に緊張していたり、やけに高揚しちゃったりしてる戦士も多いのですが」

「緊張はしてますよ。ただ……折角の晴れ舞台。緊張しちゃったら楽しめないじゃないですか」



 大噓つきだ。本当は気分が上がりきっていないから、緊張しないだけ。僕は別に、鋼メンタルであるという訳でも、逆にガラスメンタルという訳でもない。木材くらいの心の強さ。燃えやすいけど、湿気を帯びたら火はつかない。


 戦う準備は出来ている。そのための心持ちも出来ている。ただ、その心は燃えていない。そんな感じ。対戦相手に失礼かもしれないな、と他人事のように思う。



「成程……そんな考え方もあるんですね。凄いです、十五歳ですよね? 本当に」

「……僕より凄い十五歳が居るんで、凄くないです」



 当時ですら十三歳だった彼女も、この道を幾度となく通ったのだろう。数々の栄光を手中に収める直前、この通路を通っていた。


 どんな気持ちだったのだろう。緊張していたのか、ワクワクしていたのか。逃げたくなったのか、トイレに行きたくなったのか。


 出会ったことすらない憧れの存在の様子を想像していると、僕の言葉の意味を理解したのか、はっとする係員さん。そしてその後、酷く悲しそうな顔をする。ファンだったのだろうか。聞くことは容易だったが、お互いそこから何も言わぬまま、歩み続ける。無機質な廊下に、僕と彼の足音だけが響く。



「よし……着いたよ。この扉の先が、コロシアムのメインフィールドだ」



 前を歩いていた彼が、歩みを止める。目の前には、少し無骨にも見える木製の扉。しかし、その向こう側から感じる熱気は、思わず怯んでしまいそうなほど。耳をすませば……いや、そんなことしなくても耳に飛び込んでくる観客のざわめき。



「やっぱり、一年の一発目の試合だから、お客さん多いなぁ……準備が出来たら、入っていいよ」

「……わかりました」



 僕は最後に一回目を閉じ、軽く深呼吸。少しだけ乱れた気持ちを、もう一度戦闘用に戻す。


 吸って、吐いて。吸って、吐いて。


 自分の心音が聞こえるのではないかというほど、自分の体に意識を向ける。


 腕、肘、肩、お腹、背中、腰、膝、足。


 異常無し。戦闘準備は万全。



「……案内、ありがとうございました。それじゃあ、行ってきます」

「うん、頑張って」



 案内してくれた彼にお礼を告げ、僕は目の前の扉を押した。

 ……全くビクともしなかった。どうやら、引いて開く扉らしい。



「……くっ、ぷっ……」

「……あー、地元だと押し戸のほうが多かったからなー」



 後ろで係員さんが笑いを堪えている。僕はあまりの恥ずかしさに口からでまかせを吐く。ちなみに、押して開ける扉と引いて開ける扉の数は、どっちも全く一緒だ。上り坂と下り坂どっちのほうが多い? というなぞなぞと同じ理由だ。


 僕は顔に溜まってしまった熱を振り払うように頭を振る。精神を再び落ち着かせた僕は、勢いよく扉を引いた。



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