雲散霧消



「……落ち着いたか?」

「……はい」



 案内されるがまま、やって来たのは先程僕を開放してくれた彼……ランス・グリズリーさん一家が営む宿屋『熊の穴蔵』。中心地から少し離れた、静かな通りにある宿屋。全体的に暗めの木材で造られた建物は、一息つける雰囲気を醸し出している。如何にも繁盛してます、という雰囲気では無さそうだが、質は非常に高そうな宿だった。


 その一室。ランスさんに半ば無理矢理宿泊を強制され、ここに連れてこられた。備え付けのソファに座り、「サービスだ」と言って差し出された、この地域で特に飲まれている紅茶、というお茶が入った湯呑み……この国ではカップと言ったかな? が、丸机の上で湯気を立てていた。


 ずずず、とランスさんは一口啜る。僕もそれに続いて啜る。紅茶を飲むのは初めてだが、中々美味しい……のだろう。今はそんなに味の善し悪しは分からないが。



「ごめんなさい、迷惑かけて……」

「仕方ねぇよ。誰だってあんな目にあったら、ああなるに決まってるさ……残念だったな」



 ランスさんは目を伏せ、先程の出来事を思い出すかのように遠くに目を向ける。ランスさんも、それなりに衝撃は受けているようだった。それもそうだ。あまりにも急すぎる引退宣言。きっと、今頃この国中……下手したら世界中で一番話題になっているのだろう。


 僕は……黙ってしまう。


 正直、まだ全然気持ちの整理は着いていないし、今でも信じられない、という気持ちもある。


 しかし……悪夢だとしたらとっくに目が覚めていてもおかしくないはずなのに、未だに見続けている。


 もう暫くは、この悪夢に付き合うことになりそうだ。覚めることは、一生無いのだろうけど。



「……それで? これからどうするんだ」

「…これから、ですか?」



 ランスさんの言葉をオウム返し。先程のように取り乱している訳ではないので、言葉の意味は分かるが、それでもその真意は分からなかった。

 ランスさんは何やら言葉を選ぶかのように思案していたが、やがて僕の目を真っ直ぐ見つめて話しかけてくる。



「あぁ……彼女の居るコロシアムで戦うことが目的なら、もうあそこに行く理由は無いんじゃないか?」



 そこに、僕に対する悪意を見ることは出来なかった。根っこからの善人であろうランスさんは、口ではかなり酷いことを言いながらも、その目は僕の事を本気で心配している。

 この街で最初に知り合った人が、ランスさんで良かった。どうやら僕は、相当運がいいらしい。その優しさに甘えるのも、悪くは無いのだろう。



「……行きますよ」



 だけど、ここまで来て。


 ここまで来て、何もせずに観光するだけして帰るなんてこと、僕にはできそうにない。こう見えても、理由はどうあれコロシアムで戦うために必死に鍛錬を積んできたのだ。何度も逃げたくなったし、何度も目をそらしたくなった。それでも、歯を食いしばって刀を握り直した。


 ここで逃げ出したら、修行をつけてくれた父さんにも、応援してくれる母さんにも……何より、これまで頑張ってきた過去の僕に申し訳ない。


 壁際に立てかけてある、一振りに目を向ける。物言うはずなどないのだが、それでも、彼は僕に『戦わせろ』と言う。

 僕だって、彼を輝かせてみせたい。誰にも見せずに終わってしまうのは、あまりにも勿体ない一振りだ。



「僕だって……ファイターですから。あそこで戦うために……いえ、勝つために、これまで必死になって鍛錬を積んできたんです……だから、僕は戦います」



 その覚悟は、とうの昔にできている。


 父さんが僕に剣を教えてくれたときから。初めてコロシアムの試合を見たときから。『流星』をこの目に焼き付けてから。


 それ以外の生き方なんて、想像したくもない。僕は、戦うしか無い。だから戦う。だから立ち上がる。前を向こうと奮い立たせようとする。


 けど、それでも。



「でも……少しだけ、一人にしてください」



 押し殺すように絞り出した一言。自分の口から出たとは思えない程、抑揚のない声。

 それを聞き遂げたランスさんは、何か言いたげに口を開いたが、そのまま口を閉じ、立ち上がる。



「分かった。飯は夕方頃だから、食いたくなったら受付に声掛けてくれ……今日の分の飯代は、料金から引いとくから」



 ランスさんは自分のカップをお盆の上に載せ、黙って部屋を去る。最後まで優しい人だった。


 少し軋んだ音を立てながら、扉がゆっくり閉まる。取り残された、僕一人。大きく息を吐き、ソファに浅く腰かける。足を大きく前に投げ出し、身体をほぼ直線にする格好。しばらくその体勢で、ぼーっと天井を見上げていた。


 疲れていたのだろう。身体が動く気がしない。よく良く考えれば、地元を旅立ってから三十日ほどの長旅だ。疲労も溜まるだろう。


 それこそ、目の前が歪んでしまうくらいには。

 溢れる。頬が濡れる。きっと、ソファも濡れているのだろう。汚しちゃってるな。後でランスさんに謝らなきゃな。



「……なんで、だよ」



 止まらない。止めようとも思わないけど、もし仮に止めようとしても、暫くは止まりそうにもない。とめどなく溢れ出る雫は、ここまで堪えていた分容赦なく僕の頬を濡らす。

 愚痴に近い駄々も、止まりそうにない。



「なんで、僕が居ないところで、勝手に終わってるんだよ」



 分かっている。僕がゆっくりと成長しようとしている間、彼女は戦い続けていたのだから。



「なんで、もう一年早く旅立たなかったんだよ。そしたら、もしかしたら戦えたかもしれないのに」



 分かっている。一年前の僕なんかじゃ、彼女が戦う最高峰の戦場まで辿り着くことが出来ない。



「もっと、戦ってるとこ見たかったよぉ……!」



 分かっている。もう彼女の戦う姿が見られない事くらい。


 分かっている。僕の『夢』が、終わった事くらい。


 分かっている。僕にできることが何も無いことくらい。


 でも。



「やだよぉ……やだよぉ……!」



 もう暫く、受け入れられそうにない。受け入れたくない。


 暫く、僕は涙を流す。子供がするように、しかし静かに駄々をこねる。


 僕の涙は、慰めてくれる人も、窘めてくれる人も居ないから、泣き疲れて眠りに落ちるまで、流れ続けた。泣きつかれて寝るのは、十年ぶりくらいの出来事だった。



 ──かくして。


 数々の栄光をかき集め、コロシアムの歴史や常識を根本から変えた天才少女、シェラ・バーンズ。


 僕の『夢』は、この日、泡沫のように消えていった。



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