第三章 三国と父①

 三国の父親に関する記憶の中で最も古い記憶は家族で山に行ったときの記憶だ.父の紅鋼と母の三国玲と三国そして妹の華の四人で山に登った.玲は紅鋼と婚約していたので,当時の苗字は紅であり,紅玲という名前だった.そのころの三国は三歳くらいで,華は玲に抱っこされていた.真夏の暑い日だったが,山の中に入ると木々が生い茂っていて少しひんやりしていたことを三国は覚えている.三国は自分で動くことが好きだったので,両親と手をつながずに動き回っていた.三国の両親は夫婦の会話を楽しんでいた.

「あなたもやっと休みが取れたのね.一年ぶりくらいじゃない? 家族でこうしてどこかに出かけるのって.あなたは仕事仕事って仕事しか興味がないんだから」

「悪かったよ.でも今が一番重要な時期なんだ.そんな時期に社長が会社にいないわけにはいかないだろう.理解してほしいな」

「まあ,今日はこうやって休みが取れて家族で出かけることができたから,いいことにするわ.つまらない話はやめて楽しみましょうかね」

 三国の父,紅鋼はいわゆる仕事人間だった.当時の三国の記憶ではいつも家にいなかった.三国が父と会うのは一ヶ月に一回あればいい方だった.そのときの三国にとって紅鋼は父親というよりも,たまに家に来る親戚のおじさん程度の認識だった.

 三国の家族は華が登山中にうんちをしてしまって,途中でおむつを替えなくてはいけないというハプニングに見舞われてしまったものの,それ以外は順調に山を登っていた.お昼時くらいになったときには三国たちは山の頂上にいた.

「意外と涼しいわね.太陽に近いから暑くなるかと思ったけど,そんなことないのね」

 玲が言った.

「標高が高いからね.その分気温も下がるのさ.太陽に近づくっていっても標高六百メートルくらいじゃそんなに変わらないよ」

「解説ご苦労様.どこかで食べましょう.おなかが減ったわ」

 三国たち一行は近くにあった蕎麦屋で食事を取ることにした.三国はざるそばを食べた.玲は温玉うどんを食べ,少し華に分けていた.紅鋼は三国と同じくざるそばを食べていた.

「僕ちょっとトイレに行ってくる」

 三国が言った.三国たち家族はテーブルで食事をしており,そのすぐ近くにトイレがあった.

「分かった行ってらっしゃい」

 トイレが近くにあったので,三国一人でも大丈夫だろうと玲は判断し,そのままトイレに三国を行かせた.

 三国はトイレを済ましてテーブルに戻ろうとした.しかし,ふと店の外を見ると紫色の大きな蝶がいることに三国は気づいた.あれは確か図鑑で見たことがあるオオムラサキという蝶のはずだ,と三国は思った.三国は図鑑でしか見たことのない蝶をもう少し近くで見ようとして,店の外に行った.三国がオオムラサキに近づくとオオムラサキは飛んで逃げてしまった.三国はオオムラサキをもう少しよく見たかったので,オオムラサキを追った.

 三国がトイレから戻ってこないと気づいたのは,三国がオオムラサキを追いかけて店の外にでて少し経った頃のことだった.

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