4.
「ったく、父さんってば。二言目にはいつもこれだ。俺は今の生活が気に入ってんのに」
ぶつぶつと愚痴を溢しながらも、リツキは楼閣の階段を降りていく。
が、その最中。
「あれ、兄上。お帰りになられていたんですね」
下層から上がって来ていた人物から声がかかる。リツキは、そちらへと視線を向け、
「イチヤ――」
イチヤと呼ばれた小柄な少年――、彼はリツキの二歳年下の弟だ。リツキとは目元がよく似ているが……、リツキよりも聡明な顔立ちをしている。
「もう帰る所だよ。父さんに呼ばれたから来ただけだ」
「また何かしたんですか?」
「ただ罪人を捕まえただけだ」
「兄上は父上の後継者なんですから。しっかりしてくださいよ」
容赦ない弟に、リツキは一寸息を詰まらせるが、
「後継者なら、俺よりお前の方が向いてるだろう」
「そんな、兄上はご長男なんですから。兄上が父上の後を継がれるのが自然です。
もしこの国に何かあったら。ご先祖様に顔向けできませんよ」
ご先祖様――、井出
が。
物事には、必ずと言って良いほど例外というものが存在し――……。
「あっ、そう言えば。兄上、エアー草鞋の調子はどうですか?」
「ああ、これか? これならバッチリだぜ」
リツキが履いている、草鞋の裏から空気の圧が出て跳躍力を高めさせるエアー草鞋も、先端から電流を放つ十手も、どちらも弟のイチヤが発明したものだ。
井出家の人間は、先祖代々科学技術に精通しており、その能力を大いに発揮していた。が。父親や弟とは異なり一人だけ――、リツキにはその才能はさっぱり、小指の先程もなかった。
イチヤは、分かりましたと簡単に答えると、リツキの瞳を真っすぐに見つめ、
「兄上。父上の言う通り、帰って来ませんか。そろそろ後を継がれる為の勉強をなされた方が良いと思いますよ。兄上は勉学が大の苦手なんですから、早く始めるに越したことはないかと。
それに、わざわざ兄上が捕り方をなさらずとも、改め方はたくさんいます。彼等に任せておけば良いじゃないですか」
やはりずけずけと容赦なく言い放つ弟に、リツキは眉を曇らせる。
が、いつまでも止まりそうにないイチヤの口をリツキは強引に塞いだ。
「俺は、この国が、町が好きだ。大好きだ。だから町の平穏を脅かそうとするやつがいるなら許さない。それだけだ」
リツキはまだ言い足りなそうなイチヤをそれでも無視して、短い挨拶を残すと階段を降りていく。
けれど、またしてもリツキの視線がとある箇所に引き寄せられると、再び足がぴたりと止まった。
「あれ。この部屋……」
(絶対に入ってはいけないと言われている、『開かずの間』だ。その部屋の扉が、)
薄っすらとだが開いている――。
天守閣の三階に位置している、ここ開かずの間は、いつもなら厳重に鍵が閉められている。だからリツキは長年この城で暮らしてはいたが、この部屋の中にだけは一度たりとも入ったことがなかった。
(ダメと言われると、したくなるのが……)
人間の性だ。それに、この機を逃したら、きっと一生こんなチャンスは得られないだろう。
うずうずと体中の神経がうごめく中、リツキはごくりと生唾を飲み込ませると、そっと隙間へと手を伸ばす。
(少し覗くくらいなら)
すぐに戻れば、ばれないだろう。
リツキは自身に言い聞かせると、一歩、また一歩と、音を立てないよう細心の注意を払いながら、足の先だけを使って真っ暗闇の中を進んで行く。この部屋がどのくらいの広さなのかすら分からぬまま、リツキは勘だけを頼りにおそらく前方へと進み続ける。次第に時間の経過も分からなくなってきて、まるで果てなんかない深い闇の中に永遠に迷い込んだ気分になってくる。
けれど、不意に微かながら光のようなものを目が捉えた。
「これは……」
真っ暗闇の中、何百という数の淡い光を放っている紙風船が宙に浮かんでいた。その空間も果てが確かめられず、どこまでも続いているようだ。
リツキはそんな紙風船の暖簾の中を、けれど、何かに呼ばれているよう進んで行く。
すると突然景色ががらりと変わり、目の前に一人の少女が現れた。齢は十歳くらいだろうか。その瞳は固く閉ざされ、カラスの羽のように一滴の不純もない漆黒の長髪が、だらりと背中に垂れている。少女の体は十字の磔台に鎖で厳重に縛られ、自由を奪われていた。
その幻想的な光景に、リツキは夢でも見ているようで。少女をじっと見つめ続ける。そして、その白い手に、無意識にもそっと触れた。
瞬間――。
少女の体から、ぱああっ……! と、眩い光がだだ漏れ出す。眩しさに、リツキは思わず手で顔を覆った。
やがて光も収まり、リツキは瞼を開かせていく。すると目の前の少女の唇がゆっくりと動き出し、
「……えい、な……」
「えいな……?」
(えいなって、人の名前か……?)
少女はその疑問に答えることはなく、代わりに氷のように冷ややかな瞳を開かせ、真っすぐにリツキを捉えた。が、意識を失ったのか、またしても瞳を隠す。それから少女を拘束していた鎖が空気に溶けるようにして消え、支えを失った少女はリツキの方へと倒れ込んだ。
リツキは咄嗟に出した手で少女を抱き止めるが、少女の体温は至極冷ややかなもので……、いや、確かに抱いているはずなのに、その感触が全くない。空を掴んでいる不可思議な感覚に、リツキはただ呆然と少女を見つめるばかりだ。
けれど、その恍惚も、どたばたと慌ただしい音によって遮られ……。
「リツキ、お前……」
声のした方を見上げると、そこには三右衛門が立っていた。
リツキは未だはっきりとしない焦点をそのままに、どうにか父親の方へと向けさせる。
「お前というやつは、やりおったな……」
三右衛門の口から、それは、それは大きな、今までに聞いたこともないほどの溜息が、はあと盛大に吐き出された。
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