第76話 見知らぬ部屋(3)

 多少ふらつきはしたが何とか立って、

褥の乱れを直し、夜着も畳んで、廊下へ出た。

 ちょうど信重付きのほぼ同輩の小姓がやって来て、

食事の用意が出来たので居室へ運ぶと言ったので、

食い気には逆らえず、それは頂戴することにした。

腹が満たされたなら宿舎のいつもの部屋へ帰りたかった。


 仙千代が粥はお代わりするわ、

川海老やモロコ、煮豆、焼いた味噌、香の物を平らげ、

凄まじい食欲なので、


 「仙千代、ほんとに病気だったのか?その食べっぷり」


 と疑いの目さえ、向けられた。


 「熱があったらしい」


 「うん、それはそうじゃった」


 「若殿や三郎は?」


 「御方様おかたさまの御判断で今日まで謹慎中なんじゃ」


 御方様とはもちろん、信長の正室、鷺山殿を指していた。


 「謹慎?」


 「川で騒動を起こしたということで……かな」


 若殿は何も悪くないのに仙千代や三郎の分まで

罪を被ってくださったと思うと、

申し訳なさのあまり息が苦しくなってくる。


 「……それですべて終わるのか?」


 「若殿は小姓達に案じるなと仰せであった」


 信重らしいなと仙千代は思った。


 「三郎は?」


 「反省したと言いながら、飯を大いに食って、また肥えた」


 若殿が心配ないと仰るのなら、

これで落着なのだと仙千代は思った。


 「それにしても、凄い御寝所だ。目がクラクラするわ。

灯りの炎が映ったら美しいだろうな、金箔銀箔の襖に」


 仙千代はその様を想像し、

どうも素直に頷くことができなかった。


 寝てしまったら灯りが襖を照らしても、見られない……

 殿ともなるとお金のかけどころが他とは違うのだな……


 「あっ、仙千代、薬。

今まで、寝てる仙千代に飲ませるの、大変だったんだぞ」


 「お陰で蘇った。感謝感謝じゃ。

今度、宿舎の掃除当番、代わってやるわ」


 「いや、計十回!」


 「ええっ、十回?」


 「五人で世話した。一人二回で計十回」


 「うぅん……分かった!やる!」


 「やったー!」


 馳走になった礼を言い仙千代が部屋を出て行こうとすると、

小姓が引き留めた。


 「そういえば……

この部屋で仙千代が休むことになったのは、

御方様の御計らいなんじゃ」


 「へえ……」


 「小姓の宿舎は四六時中出入りがあって賑やかで、

それでは病人が落ち着かぬからと」


 「そうなのか……」


 「御顔を拝することがあれば、

礼をお伝えするのがいいかもな」


 鷺山殿は何とも言えぬ威厳があって流石、

殿の御正室様という風格なのだが、

さっぱりして明るい人柄から、小姓達に大変慕われていた。

また度々皆を集め、菓子や果物をふるまってくれたりした。


 「今日は自分の部屋へ戻る。

元気になったら一人でここに居るのは、ちょっと」


 「やたら広いし、話し相手も居らぬしなあ。

御方様には伝えておくわ。

快癒して今夜は宿舎へ戻ったと、それだけは先に」


 「かたじけない。

明日には勤めに戻る故、若殿にも是非、そのように」


 「合点承知」


 鷺山殿は明晰で素晴らしい方ではあるが、それだけに、

殿という主が居ない間にその居室を仙千代にあてがうとは、

何だか妙な気分ではあった。


 もしや、北近江へ出立前に、殿の御指図が既に何か、

あったのだろうか?

御方様は殿の御言い付けを、

なぞられただけなのかもしれない……


 根拠はないが、仙千代は、ふっとそう考えた。

もう今日は、とにかくここに居たくなかった。

特別扱いされているような気がし、

子供心にも、重い負担でしかなかった。







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