第75話 見知らぬ部屋(2)

 仙千代の気配に気付いたものか、襖が開けられ、

入ってきたのは先だって霜焼けの時に診てくれた白髪の医師だった。


 脈を取ったり、額に手を当てたり、舌を確かめられた。


 「御自分で何処か不調だと思われる箇所は?」


 「ございませぬ。ただ腹が減りました」


 医師は頷き、微笑んだ。


 仙千代は川で溺れた後、三日間ここで寝ていたらしかった。

 他は若殿はじめ健勝で、仙千代だけ熱を出し、

小姓の手隙の者達が、

交互で看病してくれていたということだった。


 「粥でも飯でも果物でも何でも召し上げれば宜しいでしょう。

食後、しばしの後、入浴をお奨め致します。

あとは今日一日、ゆっくり休まれ、

異常がなければ明日から万事如意で構いませぬ」


 「御診立て、有り難う存じます」


 「いやいや。これが勤めです故」


 「あの、」


 「はい?」


 「この部屋は?」


 「殿がお寛ぎの際お使いになられる館の御寝所でございます」


 仙千代は一気に目が覚め、妙な汗が噴き出てきた。


 そうか、今回の出陣前の日、

殿が休んでいくかとお尋ねになった部屋はここだったのか……


 「殿は薄暗い内に起きられます故、

金箔銀箔の内装をお気になさいませんが、日中は眩しく、

休むには、ちと、御不便ですな」


 匂いの正体も、ようやく分かった。

仙千代の家の庭で信長の腕に抱かれた時、

そして、北近江へ出立の前日、この館の信長の居室に呼ばれ、

髪の乱れを直され、頬を撫でられた時、

確かに同じ香りがした。

信長は、遠くに香るだけでも爽やかで、

間近で匂っても邪魔にならず、

甘く奥ゆかしい深い匂いをいつも身に纏っていた。


 殿の匂いだった、そうだった……


 またも真綿で首を絞められるかのような、

正体不明の不安を覚える。


 こんなに良くしてもらって苦しいと思うのは、

天邪鬼なんだろうか、ひねくれているんだろうか……


 仙千代は矢も楯もたまらず、立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る