第71話 兄弟舟(1)

「若殿ぉー!若殿ぉー!」


 「仙千代ぉー!もう着くからなー!」


 聞き慣れた声が意識に入り込んでくる。


 「若ぁー!若ぁっー!」


 泣き声混じりの悲鳴にも似た叫びでいよいよ信重は目覚めた。


 まず仙千代の呼吸を認めると立ち上がり、中洲の縁へ向かう。

 砂地に足を取られ、よろめく。

 ここへ辿り着くまでに体力を使い果たしていた上、

仙千代を摩り続けていた。


 「ああーっ!若殿っ!若殿ぉー!」


 三郎だった。水に落ちた時のままの格好で、濡れ鼠だった。

二度と落水すまいということなのか、中腰姿で手を振っている。

信重を見付けると涙、涙で、鼻水を垂らし、

これも自分の小姓だと思うと可愛くはあるが、

笑ってはいけないと思いつつ、やはり滑稽だった。


 同じ泣き顔でも仙千代とはずいぶん違う……

 仙千代なら鼻水だって甘そうなのに……


 と思い、直ぐ、


 依怙贔屓はいかん……


 と、思い直し、


 いや、断じて、仙千代と三郎の鼻水は違う……


 と、大真面目に思った。

 

 舟は彦七郎兄弟が漕いでいた。

 儀長城の謁見の間で初めて彦七郎と彦八郎に会った時、

海の漁師を見たことのない信重は二人に投網を持たせ、

漁をしている姿を思い浮かべ、

一人でちょっと笑ってしまったのだが、

それが今、正夢のようになっている。

体躯のしっかりした兄弟が舟を漕ぐ姿は信重が連想したとおり、

「兄弟舟」という趣だった。


 「若殿、お迎えに上がりましたっ!」


 三郎のふっくらした丸顔が涙だらけだった。

 信重が岸に脱ぎ捨てていた着物を手にしていて、

ぽんっと船から降りると、走り寄ってくる。


 「申し訳ございません!私が溺れたばかりに」


 いや、あれは溺れるどうこう以前の話だ、

単に沈んだとしか言えぬ……


 信重は胸中で思ったが、

金槌の三郎に今それを言うのは酷だった。


 「もうそれはいい。

来月には今年も水術の師範が来られる。

必ず泳ぎを覚えろ。自分の為にな」


 三郎は去年の秋に小姓として岐阜へやって来た。

泳げないと本人が何かの折に話していたので、

今季から泳ぎの特訓を受ければ良いと皆が思っていた。

その前に今日の事故が起こってしまった。


 「ははっ!」


 三郎自身、ずぶ濡れのまま、信重に着物を着せようとする。


 「自分で着られる。向こうの茂みに仙千代が居る。

仙千代を皆で運べ」


 彦七郎が舟に残り、彦八郎が三郎と共に芦の茂みに走った。

信重でさえ足元が不安定でヨロヨロなのだから、

仙千代に至っては二人に抱えられ、

ほとんど引きずられるような格好で舟へ乗せられた。

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