第70話 夢の浮島

 「若殿……」


 「ここに居る」


 「目が開けられませぬ……」


 「開けずとも良い」


 「お詫びを……しなくては……」


 「何を詫びる」


 「助けてくださった……」


 そうだ、仙千代だから一も二もなく追った、

失いたくない一心で追った、仙千代だったから!……


 と胸中で叫んでいたが、口をついて出たのは違う言葉だった。


 「誰であっても助けた。気にするな」


 仙千代だから追ったのだとありのままを言うべきだったか、

迷いはあった。それを聞けば仙千代は恐縮すると

信重は思い、仙千代の負担の少ない答えを選んだ。


 陽は麗らかうららかで風は凪いでいた。

しかし卯月に雪解け水に流された挙句、中洲で裸体は芯まで凍みた。

 一段と懸命に仙千代の背を摩り、冷えた足先を脚に挟んだ。

 

 仙千代がようやく目を開けた。

瞼を動かすだけで精いっぱいだという様が見て取れた。

葡萄のように深い色をした巨きな黒目、

青くさえ見える白眼に一瞬、見惚れる。


 「目は見えるのか」


 「……見える……」


 「儂の顔も見えるか」


 「目が一つ、鼻が三つ……」


 こんな時にこんなことを言う仙千代が好きだった。

やっぱり仙千代だ、仙千代しか居ないと信重は思った。


 「化け物か、儂は」


 「仙千代には……化身でございまする」


 「化身……それなら少しはマシか」


 「銀杏いちょうの実の化身」


 「臭いではないか」


 「翡翠のような実は美しく、味は気品がございます」


 「口ばかり達者じゃ」


 眼差しが重なり、ふたたび口づけたくなる思いに駆られた。

仙千代の瞳にも微かな懇願めいた表情があり、

今なら絶対拒まれないと思ったが、口づけた後、

これほど疲労していてももっと仙千代を欲しくなり、

激しく迫ってしまいそうになる自分を必死に抑えた。


 「冷えるな。すまぬ、着物は脱がせた」


 「うん……」


 「三郎を助けようと、着物も脱がず……

儂より先に川へ入ろうとして」


 肌が触れ合う部分は温かだった。

仙千代が信重を慕う想いは伝わっていた。

百年以上戦の絶えない世で、信重も仙千代も明日のことは分からない。

だが今は、中洲が夢の浮島だった。


 「馬鹿なのです……きっと」


 「知ってる」


 「そうなのですか……」


 「今までの小姓の中でいちばんの馬鹿じゃ。

仙千代のような奴、見たことがない。絶対居ない、これからも」


 仙千代は微笑み、弱弱しい力ながら抱き着いてきた。


 「もう……目を開けておれませぬ……」


 「休め、存分に……」


 「いつまでも若殿を……」


 声はそこで途切れ、仙千代は瞼を閉じた。

言葉の続きを聴きたかった。

 しかし、懸命に仙千代を摩り続けた信重も、

いつか睡魔の手に落ちていた。


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