第21話 鯏浦(2)

 真正面に顔を見合わせる形で抱かれている仙千代は、

少しでも体重をかけまいと信長の肩に回している手の力は弱く、

逆に、両脚は胴にぐっと絡み付けていた。

 梯子から降ろした後は直ぐ解放するつもりでいたが、

仙千代が信長に被さるように飛び込んできた時、

鼻先に温かな頬や柔らかな髪が触れ、

初めて嗅いだ仙千代の汗の残り香の青い甘さに酩酊を覚え、

手放すことが難しく、


 「仙千代……」


 と低く囁き、間近で瞳の奥まで見詰めた。

 この時の名の呼び掛けは信長にとっては恋慕の情の告白だったが、

幼い仙千代には当然伝わっておらず、


 「有り難う存じます。もう降りまする」


 と身を離そうとした。

 信長は性急に傾く自分を抑えられなかった。

 仙千代を抱いたまま、言った。


 「儂のところへ来るか?」


 信長の中では信長の所有ものとなれという意味と同義だった。

信長自身、臣下の息子を小姓にするという感覚から、

既に遠く離れていると知っていた。

 だが、奇跡とも思われるような美の造形が、

このあと信長以外の手によって、

または誰の目に触れることもなく成長を遂げ、熟し、

絶頂期を終えてしまうかと思うと、

傷つくに容易い貴いたからのようにも感じられ、

あだや疎かな扱いはどうにも難しいのだった。


 仙千代はただ驚いて瞬きを繰り返している。


 「儂の許へ来るか?」


 大人の狡さで、「来ないか?」とは訊かない。

否定形で尋ねれば否定で返る確率が増す。

 何にせよ、

支配者たる自分が許可や確認を得る必要は皆無なのだが、

仙千代の口に「はい」と言わせてみたかった。


 意外にも仙千代は逡巡する様子を見せ、


 「直ちにはお答えできかねまする……」


 と、言う。

 歴戦の猛将であれ、

信長の前では一挙手一投足を見逃すまいと皆が皆、

神経を張り詰めて接する中、

仙千代のこの言い様は、生意気といえば生意気、

恐いもの知らずといえば恐いもの知らずで、

仙千代なりに何某か思うところがあり、

追い詰められた末の幼い故の反応なのだろうが、

純朴であるからと必ずしも単純に過ぎ、

短絡的ではないとも知れて、いっそう好ましかった。


 そして、


 「斯様な状態は心苦しく、どうぞお放しくださいませ」


 とも言った。

 気付けば庭には仙千代の家族、使用人が遠巻きで総出となっており、

いつまでも抱いているわけにはいかなかった。


 仙千代は身の自由を得ると、信長の足許に降り、

地に片膝を立て、頭を伏した。


 「仰々しくならずとも良い。気まぐれで寄ってみただけじゃ。

二間城ふたまじょうに行った帰りでな」


 二間城という名が出ると、やはり仙千代は顔を上げた。

 織田家に臣従する土豪の城、二間城は、この鯏浦うぐいうらに程近く、

今や、長島一向一揆衆と対峙する最前線となっていた。

 

 一揆衆の本拠地は、

七つ島という地形を表す言葉が変化し長島となったこかたにあった。

信長は伊勢方面、ひいては一揆衆への抑えとして鯏浦城、

小木江こきえ城という二つの城を築き、弟、信興を総大将として置いていた。

 

 一昨年、一揆衆は、浅井氏、三好三人衆、荒木氏、

加えて比叡山延暦寺という包囲網に信長が苦闘していると見るや、

桶狭間の合戦時には今川方に付いていた地方豪族、

服部氏と組み、まず鯏浦城に攻め入って落城させ、

信興を小木江城まで押し戻すと、

孤立無援ながら六日間勇ましく戦った信興を自刃に追い込んでいた。

 

 二間城は軍事拠点として重要な位置にあり、

仙千代の父は織田家からの支援として他の数十名程と共に、

信興の死後はそこに詰めている。

 今日は信長自ら、城の陣容を確かめると同時、陣中見舞いも兼ね、

美濃から尾張へ足を伸ばしたのだった。

 

 二間城では城主やその重臣達と現況及び今後に関する評定を行い、

長島勢とまたも一戦を交える際、如何なる備えが出来ているのか、

現地でつぶさに確認をした。

 常は検使役を派遣し、それで済んでいることを今回、

信長が直にやって来たのには訳があり、

ひとつには、

信興を死に追いやった一揆衆を決して許しはしないという決意の発露、

もうひとつが今更でもなく、仙千代の父を見ておくことだった。

了解など得ずとも、仙千代を岐阜の城へ召し上げるといえば、

万端済むことではあるが、

仙千代に関しては委細漏らさず知っておきたいという、

好奇心とも愛情とも言える思いからの行いだった。









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