第20話 鯏浦(1)

 信長は仙千代が屋根の上に居るのを見て内心、舌打ちした。

昨年末の矢合観音で落ち葉に滑って転んだところを目撃し、

しばらく仙千代の動きが止まっていた最中は生きた心地がしなかった。


 梯子の途中の仙千代の目は驚きで見開かれていた。


 「殿様!今、降りまする」


 信長は叫んでしまった。


 「降りずとも良い!」


 仙千代は意味が分からないという顔でキョトンとしている。

 

 最後に見てからまだ半月ほどだというのに、

長く離れていたような気がする。

 この半月は強く焼き付けられた仙千代の姿を思っては、

今どうしているのか、

また悪戯や失敗で怪我をしたりしてやしないか、

結果、美しい顏に傷でもこさえてはいないか、

そのようなことを堂々巡りで考えては心配をしたりもした。

 正常な思考をもってすれば仙千代は十二に至る今日こんにちまで

健やかに育ってきたのであるから、

何も他人の自分が慮らずとも家族の目がきちんと行き届き、

安全に暮らしていることは明々白々なのだが、

それを許さない信長の心理があった。

 今、ここ、尾張最西端、鯏浦うぐいうらに信長が居る理由は幾つかあるが、

正直に認めてしまえば、最大のそれは、ただ仙千代を見たかった、

声を聴き、共に時を過ごしたかったということだった。


 やって来て早々、

屋根の上に居る仙千代を目の当たりにした時は万一を危ぶむ余り、

一瞬、怒りにも似た感情に襲われ、

やはり仙千代は一刻も早く手元に置かなければならないと確信をした。

それが仙千代の為であり、万見家を利することになり、

何よりも信長の不安が打ち消され、満足……いや、喜びとなる。

信長にとり、唯一にして最善の道は最初から決まっていた。


 「自分で降りてはならぬ!」

 

 仙千代の目が一段と大きく開く。

 

 「いつも木登りしております故、大丈夫でございます」


 「もっと大きくなってからする遊びじゃ、

これからはしてはならぬ」


 支離滅裂だと信長自身、知っている。

男児というものは木があれば登りたがり、

穴を見れば入りたくなり、水辺に行けば足を入れたくなる。

しかし仙千代がそうであってはならなかった。

仙千代もいずれ育って大人となり、旅立ってゆく。

そんなことは知っている。

だが今は替えの利かない無二の愛寵の対象として、

一切の危険に晒す気は毛頭なかった。


 明らかに困惑している仙千代が眉を顰めひそめ

何か言いたげに唇を微かに開けている。

その表情がまた何とも清純無垢で愛らしく、

原因となる言葉を投げた張本人は信長自身であるのに、

思わず哀れを感じ、許されるなら直ぐにも抱き寄せ、

何も恐れることはない、護ってやると言い聞かせたかった。


 「儂の言うことがきけぬのか」


 優しい口調に変え、両腕を仙千代に差し出した。


 「ここへ」


 仙千代は固っている。


 「……自分で降りられまする」


 「再びは言わぬ。ここへ」


 それはもう命令だった。

仙千代に逆らう余地はなく、逆らわせるつもりもなかった。


 意を決したような面持ちの仙千代が梯子から移り、

両の腕の中に落ちた瞬間、

仙千代の運命を確かに自分が握ったと信長は確信した。













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