第17話 睦月(1)

 あの御方は奇妙丸様……

 奇妙丸様……


 儀長城での餅つきの日以来、

新年を迎え、既に十日ほど経っていても、

仙千代の胸には呪文のように「奇妙丸」という名が渦巻いて、

消えることがなかった。


 よもや、

菩薩の化身が岐阜の若殿様だとは思いもしないことだった。

実際、奇妙丸は、仙千代が見たことのない奢侈しゃしな着物で、

醸す雰囲気が今までに知っている他の誰とも違っていた。

 しかし共に居た時は仙千代の思いを何の労もなく、

すっと受け止めてくれる甘い心地よさに安住し、

相手が何処の誰なのか現実的に推し量る意識は飛んでいた。

 儀長城には、

織田家、橋本家ゆかりの近隣の男子が集まっていたのであるから、

せめて餅つき行事に絡めて考えれば良いものを、

仙千代はあのひと時に充足し、浮き世の一切が消えていた。


 もう会うこともないと思っていただけに、再びの出逢いは、

頭の中で爆竹が鳴り響き、顔がかっと熱くなり、

心の臓が躍って口から飛び出してきそうだった。

 ただ嬉しくて、視線を外すことができず、見詰めてしまい、

慎ましやかにしていることを忘れ、

ひょっとしたら笑顔ですら、あったかもしれない。


 仙千代は観音様に感謝した。あの朝、御縁をいただいて、

参らせてもらったことがきっかけで、謁見の間に呼ばれ、

岐阜の殿様が驚かせたことを、畏れ多くも詫びてくださり、

その御蔭で奇妙丸との再会も成った。

 その岐阜の殿、信長は、奇妙丸が姿を見せた途端、

存在が消えていた。

父の主君であり、この尾張の地の支配者にして、

今では帝ですらが縋る強大な力を持った信長が、

仙千代にとっては、元服前の奇妙丸より影が薄く、

その前ではひとつの背景でしかなかった。

 いとまを告げて部屋を下がった後は、

何やらぼんやりとした概念めいたものとしての印象しか、

信長には残っていなかった。


 冬の陽は短く、

日暮れまでには家に着いていなければならない為、

信長が気遣いを見せてくれ、餅を食した後は、

謁見の間を早々に後にして、帰路についた。

 帰り際、三人が御殿の外へ出た辺りで、

城主である伊賀守いがのかみの側近が追い掛けてきて、

望外に大量の餅を持たせてくれようとした。

年長の彦七郎が、行事を手伝うことは当たり前であって、

そこまでしていただくのは忍びないと言い、

つまり、それほど多くの餅は持てないとやんわり伝えた。

 すると、橋本家の小物二人を三人に同行させ、

餅を運ばせるので遠慮は無用と言い、


 「すべて岐阜の殿の思し召しである」


と、言った。

 正月の間、万見家では、餅はそれですべて賄える量だった。













 

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