第16話 謁見の間(3)

あとひとつ、

これが父を許せなく思う最大の理由なのだが、

奇妙丸には甲斐の武田信玄の五女、松姫というつまが居て、

二人の関係に対して最近愉快ではないことを言われ、

このことが今の奇妙丸には最も腹立たしいのだった。

 

 織田家と武田家の間に三年前、婚姻同盟が成立し、

現在松姫は武田家に於いて、

織田家嫡男の正室として「御預かり」という身分だった。

奇妙丸は松姫に会ったことはない。

形だけの婚姻なのだからと奇妙丸ははじめ、

松姫に特段の関心はなく、いずれ見まえることがあるにせよ、

当分有り得そうになく、実際、興味の外だった。


 父は奇妙丸に手紙ふみと贈り物を定期的に松姫に送るよう、勧めた。

形としては勧めだが、実態は命令だった。

 最初、渋々始めたやり取りだったが、

四季折々の甲斐の風景、周囲の人々の心温まる逸話、

離れて暮らす奇妙丸への思いやりあふれる言葉の数々、

それらが流麗な書体で表されていて、

いつか奇妙丸はすっかり心を奪われてしまった。

 何かの拍子に返事が遅れれば一日千秋の思いで姫からの手紙を待ち、

受け取ったなら、

あれほど待ち焦がれていたのに勿体なくて直ぐには読めず、

しかし結局、慌てるようにして文面を確かめるのだった。

 

 離れて暮らし一度も会ったことがなく、この後も会えるかどうか、

実のところは分からない。それ故、一文字一文字が愛おしく、

繰り返し、何度も読んでは、姫を想った。

 奇妙丸は元服前で、未だ、初陣を飾ってはいない。

しかし、いつか必ず姫を迎えにいくと心の奥では決めていた。

たとえ両家の間がどうであれ、姫を愛慕する気持ちは変わらないと、

奇妙丸は考えていた。

 

 少し以前、父との間で甲斐の情勢について話題が出た際、

思い付いたように松姫との手紙のやり取りについて訊かれ、

有体に話したところ、


 「深入りはせぬように。あちらは信玄の娘、

優しい言葉に惑わされ、努々ゆめゆめ術中に陥ってはならぬ。

謀略の具にされてはならぬぞ」


 と言われた。

 奇妙丸とて、家中の動静を綴るほど不注意ではないつもりである上、

姫もそこは承知していて、お互いに、会うことが叶わないこそ、

切ない思慕の念を認めるしたためるのみだった。


 「では、どのようにすれば父上は御満足なさるのです」


 と問うと、手紙のやり取りが頻繁に過ぎ、目に余るという返答で、

これに奇妙丸は完全に頭に血が上り、


 「そもそも父上の御命令だったではありませぬか」


 と、つい声を荒げて言うと、

常は物静かな奇妙丸だけに父は驚き、一瞬黙したが、直ぐに、


 「室であって室ではないということだ。

のぼせて本気になるとは、信玄の娘に篭絡されたか!

立場をわきまえよ!」


 と怒鳴られ、

松姫を汚されたような気になった奇妙丸は息も荒く、


 「何の害があるのです!

これほど離れているというのに。

手紙すら父上の御意志でしか書けぬというなら書きませぬ!

あとはお好きになされば宜しいでしょう」


 と叫ぶと、あんがいサッと引き下がり、


 「まぁまぁ。分かった分かった」


 と、誤魔化す。この、


「分かった分かった」


 が、曲者で、実は全然分かってはいない。

 こちらの言うことを耳では聞いても真に受けてはいない。

そこに一段と苛立ちが重なる。


 「何をお分かりになられたのです」


 「左様に気色ばむな。織田家の後継が、

会いもせぬ敵の姫に狂って大声を出すとは見苦しい」


 やはり分かっていなかった。いつも見下げて対してくることが、

まったく憎々しい。


 「狂ってなどおりませぬ!」


 「いや、狂っておる。松姫に骨抜きになっておる。

奇妙は元服の夜の添い臥しを拒んだそうではないか。

大切な儀式を拒むとは何事」


 元服後の御添い臥しという行事は、

周囲が用意した相応の女人の援けを得、

性的に大人になる儀式を指していた。

 弟達は身体的に未熟ということで今回その話はないが、

奇妙丸には予め、告げられていた。

 それを奇妙丸は断ったのだった。

心の中に松姫が居て、

肉体だけの交わりをすることはおよそ気が進まなかった。


 「健康な男子であれば喜んで教わるものじゃ」


 「今はしないというだけで、心身は健康でございます!」


 「儂の子がそれか。情けない」


 「情けなくともお断り致します!」


 「変わり者め!虚けか!」


 「父上の子でありますれば、虚けの二世でございます」


 「この糞だわけが」


 最後はああ言えばこう言うの応酬で終わったが、

他にも些末な行き違いや愉快でないことは少なくなくあり、

今日に至るというわけだった。


 やがて竹丸や仙千代と親しいという少しばかり年長の彦七郎、

彦八郎兄弟が合流した。

 仙千代は海辺の村からやってきたと話していたが、

兄弟は潮の香を漂わせているかのような野性味があり、

海の漁師というものを見たことがない奇妙丸は、

頭の中で二人を舟に乗せ、投網を放たせてみた。

 それがまたいかにも似合い、奇妙丸は二人に見えないところで、

少し笑ってしまった。

 最初こそ畏まって緊張の色を見せていたものの、

朗らかで陽気な兄弟二人を父は気に入ったようで、


 「よう働いた褒美じゃ、いくらでも食べるが良い。

その食欲は頼もしいのぅ」


 と機嫌が良かった。


 幼い仙千代は、ゆっくり餅を食べ、

皆の話の聞き役……というより、そこに居るだけだった。

 声が大きく明朗快活な「兄弟舟」が座の中心で、

父、伊賀守いがのかみ、竹丸が相の手を入れるという形だった。


 一度、仙千代と目が合った。

 奇妙丸は微笑んで、心の中で、


 「美味いか?」


 と尋ねた。

 奇妙丸の無言の問いが聴こえたかのように、

仙千代は頷いてうなづいて

両手で持った餅をぱくっと食べた。

 何故心の声が伝わったのか。

以心伝心であるとか、霊力であるとか、

そうしたものとは違っていると、それだけは分かったが、

この小さな童子と自分が何か特別な絆で結ばれているとは考えず、

偶然の結果だと奇妙丸は思った。


 あと三日で大晦日となり、正月には元服式が待っていた。

今回は添い臥しは行われないということに決まりはしたが、

他でも父との間には何かと軋轢が絶えず、

奇妙丸は今この場にもし仙千代や「兄弟舟」が居なければ、

さぞ息が詰まるだろうと思った。



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