第8話 亀裂

日産から連絡があった。

もう少し時間がかかるという。

ずっとガレージで眠っていたZ

それでも悪影響は出ていないという。

もう少し入念に点検したいという。

僕は

「急がないのでお願いします。」

とだけ伝えた。

タイヤはやはり要交換で

ひび割れとフラットスポットがあったらしい。



「亀裂」


やがて七月。

雨と毎週末のデート。

君が出張する前日も

夜のドライブに出かけた。

海辺の道の駅の駐車場の片隅で

雨の音を聞きながらコーヒーを飲んで

明け方まで抱きしめ合って過ごした。

夜が明ける前に君を送り届けた。


君のことが気がかりだったのは、

雨が激しくなってきたから。

そしてその夜のこと

僕は気がかりで眠れなかった。

なぜだ。

不安だった。

君から連絡が来ない。


朝になっても君からのメールは届いていなかった。

今までそんなことは一度もなかった。

何かあったのか。

出張はユミコ先輩と。

不安が頭をよぎった。

そんなことはないだろうと

自分に言い聞かせた。

ユミコ先輩から連絡が入ったのは

その日の午後のこと。

「今日は直帰する」とのこと。

それから

君が

「君が元カレとどこかに出かけた」という世間話

知る必要などなかったこと。

たまたま僕が電話を取っただけのこと。

知らなければよかったこと。

それ以上でもなければそれ以下でもなかったこと。

たわいないこと。

でも亀裂という言葉が浮かんだ。

僕はたぶん

怒りと嫉妬で体が熱くなってくるのを感じていた。

そんなとき、君からメールが入った。


From Yuka

遅くなってごめんなさい。夕べは寝てしまって返信できなかった。今日会える?


僕は君からのメールを無視して最後の仕事に取りかかった。

家に帰ってしばらくして君からメールが来た。


From Yuka

今、そちらに向かっています。


僕は何も考えられずに

電源を切って、テレビの前に横になった。


To Yuka

元カレを優先するような女は来なくていい。


なぜそんなことをしたのか自分でもわからなかった。

とても後悔した。

その時はただ

君に対する怒りのようなもので一杯だった。

知らなければよかったこと。聞き流せばよかったこと。

してしまったことをとても後悔した。

でも

この嫉妬男のバカなメールは

確実に君に届いて、君に伝わってしまっているということ。

君はどう感じているだろうか。


いつの間にか寝入っていて、

暗い部屋にテレビの明かりだけがあった。

今何時頃だろう。

昨夜はほとんど眠れていなかったんだ。

それから少しずつ頭がはっきりしてきて、いろんな事が整理できてきた。

僕はハッとして、電源を入れた。

君から何度もメールが入っていた。


From Yuka 18:30

ごめんなさい


From Yuka 18:40

怒らせてごめんなさい。


From Yuka 18:45

9時には自分の部屋に戻っていたの。

前日も寝ていなかったから寝入ってしまったの。


From Yuka 19;30

いつもの場所で待ってる。


今何時だ。

9時過ぎ。

急いでZに乗り込んでエンジンをかけた。

なぜだか君がまだ待っているような気がした。

それから

君の青い車を探した。

もうない。あるはずがない。

空港の駐車場の端っこのオレンジ色の街灯の下。

ポツリと停まっている青いクーパー。

ハンドルにうつ伏して泣いているのはたぶん君。

どうしていいかわからずに、

僕はしばらく少し離れたところにたたずんでいた。

それからゆっくりと君の車に歩み寄って、

それから窓ガラスをノックした。

コンコンと。

君が飛び出してきて僕に抱きついた。

「ずっと預かっていた時計を返して・・・。」

「もう会えないよと伝えて・・・。」

涙をいっぱいにためて

小さな声で

それでも一生懸命に

伝えようとしている君。

人影はない夜の駐車場。

君の体臭

君の温もり

それから初めて見る君の涙

僕にできたことは

君を抱きしめること。

それから

「もういいから。」

と何度も繰り返すことだけ。


僕たちは初めて肌を合わせた。

僕たちはやっと一つになって、お互いを抱きしめ合った。

真っ暗な部屋とラテンの音楽。

僕たちは何度もお互いの存在を確かめあって、

それから何度も言葉を交わして

何度も抱き合って窓の向こうの漁り火を眺めた。

東の空がほんのりと明るくなるまで、ずっとそうしていた。


その日をきっかけに

僕たちは毎日一緒にいるようになった。

どんなに仕事が遅くなっても

どんなに疲れていても

僕たちは会って抱きしめ合って朝を迎えるようになった。

僕は何も考えられなかった。

今後のことも

倫理も道徳も

仕事も友だちとの関わりも

僕はどうでもいいと思い始めていた。

君がいい。

君さえいればいい。

君と一緒にいたい。

ずっと一緒にいたい。

好きでたまらなかった。

錯覚でも構わない。


君と一緒にいられるならすべてを受け入れようと決めていた。

たとえそれが、君以外のすべてを失うことになろうと構わない。

恋は人の心を強靱にする。

たとえ間違った恋でも

恋は恋だ。

二人にとってはかけがえのないものに違いない。

そんな恋に今堕ちている。

それだけで十分だと思っていた。

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