第3話 当夜

僕は久しぶりにZに乗り込んで、スタートボタンを押した。

エンジンの始動を試みたんだ。

Zはギュルと言ったきり沈黙した。それが最後の声だった。

長い間かまってもやらなかった。バッテリーがすっかり上がっていた。

僕はZから降りて、それからまたカバーをかけた。

ルマンブルーの艶やかな車体は埃でくすんでいた。

そんなことに改めて気づいてから、Zのことを不憫に思った。

Zはガレージの中ですっかり沈黙していた。

この状態をいつまで続けるつもりなのだろうか。

自分に問いかけたけど。

Zを目覚めさせる気力も意志も喪失していたんだ。


「当夜」


高速道路を西に向かって疾走していた。

ルマンブルーに夕日が映り込んでいた。

ガラス越しに見えるボンネットがきれいだった。

Zは法定速度を少し超えたスピードを維持しながら、滑るように疾走していた。

アクセルを踏み込むと背中を蹴られたように加速した。

高速道路をZで走ることは快感だった。

それでも僕は助手席の君に無駄な慣性を与えないように努めていた。

Zでの高速クルージングは、意外にも静かで快適だった。

僕たちはいろいろな話をした。

それでもZは夕日を追いかけてた。

まだ夕日が残る海峡を二人で眺めた。

街が夜の景色に染まり始めたころ

僕はいつのも駐車場にZを止めて、少しだけ街をぶらついた。

少しだけなじみの店で軽い食事を取った。

それから都市高速に乗って帰路についた。

途中でZを停めて、海峡の夜景を二人で眺めた。

ずっとここに君を連れてきたいと思っていた。

君が隣にいることが信じられなかった。

夢のような情景が広がっていた。


すでに9時を過ぎていた。

僕は少し焦って帰路についた。

少しばかりZを振り回した。

君をせめて今日中に送り届けなければという思い。 

僕を急がせた。

それは君への言い訳に過ぎなかったのかもしれない。

この車の性能を試したかったんだ。

解き放ってやりたかったんだ。

Zは思い通りに疾走した。

すごい性能だと思った。


君は・・・。黙って見ていた。

それから

「すごいね」と言った。

「この車も、あなたの運転も」


空港の駐車場。

君の青いクーパーが待っていた。

一度きり。

そういう約束だった。

僕はその約束を絶対に守るつもりだったんだ。

君が来てくれただけで十分だったんだ。

それからZに君を乗せて遠くに行けたことにも。

夜の景色を一緒に見たことも。

本当に。本当の本当だよ。

今の気持ちを素直に伝えた。

「今日はありがとう。来てくれてありがとう。嬉しかったよ。」

「うん。こちらこそありがとう。楽しかったよ。」

「僕も楽しかった。」

「うん。」

「じゃあね。」

「うん。」

でも君はなかなか車から降りなかったんだ。

僕は仕方なくエンジンを止めた。

それからしばらく沈黙があって、

「約束は約束だものね。」

「うん。約束は約束だね。」

「うん。」

「迷惑だけは、かけたくないんだ。今日みたいに・・・。」

「・・・・。」

「おやすみ。気をつけてね。」

「うん、おやすみ」

青いクーパーを見送ってから、僕はやっとエンジンを始動させた。

それからため息をついて、Zをゆっくりと発進させた。

すでに深夜で、青い街灯だけが道を照らしていた。

君と二人っきりで会うことはもう二度とないだろう。

そんなことを考えていた。


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