第4話 約束

ルマンブルーのZはガレージで眠ったままだ。

今日こそは。

ガレージに行ってボディカバーを外した。

バッテリーに電気をチャージしてスタートボタンを押した。

エンジンがあっけなく始動した。

Zの傍で力強いエンジンの音を聞いていた。

まだダメだ。

それからエンジンを止めてしまった。

気持ちが高まらない。

再びボディカバーをかけてガレージを出て行った。


「約束」


4月になって、春が加速し始めた。

春の陽射しが少しずつ光度を増し緑がとても鮮やかになった。

あれからの僕たちは、いつもと変わらない同僚だった。

宝石のように輝いていたあの夜の思い出が夢のように感じられた。

僕たちは何事もなかったように振舞っていた。

気さくな同僚としての関係を壊したくなかったから。

そういうことを無意識に思っていた。


時間の経過だけが経過し、忘却という安全装置が心を軽くしてくれた。

2度目の金曜日は、職場の歓迎会だった。

会が終わり、同僚たちが散っていく。

駅に着いたとき、君と二人きりになっていた。

それから「さよなら」を言おうとした。

「ねえ、お腹が空かない。何か食べて帰りませんか。」

意外な言葉だった。

僕は戸惑いながらそれでも

「うん。」

と同意をした。

行きつけの店のカウンターでワインとチーズを味わった。

僕たちは少し酔っぱらって、饒舌になっていた。

「ねえ、約束を憶えてますか。」

「うん。」

「どんな約束だったか言ってみてくれますか。」

「あの日のデートが最初で最後。二度と君を誘わないっていうこと。」

「違う。違います。」

「えっ。何が。」

「帰りのZの中で。」

「えっ。」

「もう一度行きたいって言ったら、連れて行ってあげようって言ってくれたこと。」

「ホンとに?」

「ホントに、です。」

突然の言葉に、僕はすっかり動揺した。

「最近冷たいなと思っていたら。」

「会わない方の約束だけを憶えていて、必死になって守ろうとしていたんですか。」

君は笑いながら答えた。

おぼろげな記憶を探していた。

一度だけのデート。

それ以外のことは、思い出せない。

それでもいい。

また君をZに乗せて海峡を渡ることができる。

ただそれだけで嬉しかった。

土曜日の9時に君を迎えに行く。

そういう二度目の約束が成立していた。

君をタクシーに乗せたあと、僕は歩いて帰路についた。

思いがけない事実を一人でかみしめたいと思った。

春の夜空に星が輝いていた。

冬のオリオンは西に沈みかけていた。

すっかり春になった。

そんなことを感じながら、春の夜風の心地よさを感じていた。

そんなこともあった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る