第31話 湯上り花園ちゃん

 洗面所のドアに触れるより先に引かれ、ぼくは驚いて視線を上げ、そして下ろした。

「は、花岡さん!」

 風呂場へとつながる洗面所から出てきたのは、花岡さんと湿度の高い熱気と石鹸の香り。花岡さんは首元の開いたTシャツにタオルをかけている。下ろされた漆黒しっこくの髪はまだ濡れていて、しどけない。色白の頬は薄紅に上気し、露になっている額と流麗な眉毛が彼女を大人びて見せた。

 湯上りの熱気と濃厚すぎる色香に眩暈めまいがしそうだった。タオルの隙間からのぞく華奢な鎖骨が眩しくて、僕は天井を仰ぐ。

「……」

 そんな僕に対して、花岡さんはじっと無言。

「花岡さん?」

 我に返った僕はおろおろと彼女を見下ろすが、花岡さんはじっと前を凝視したまま。身長差があるため、顔を上げてもらわないとこのままでは視線が合わないのだ。

 腰を屈めてのぞき込もうかとも思ったが、それも失礼かと思いとどまる。湯上りの無防備な状態で人に会いたくなかったのかもしれない。

 相変わらず、花岡さんは無言のまま動かない。僕は精一杯気を利かせたつもりで、明るく声をかけた。

「か、風邪ひくといけないから、僕はこれで……」

 そそくさと彼女を避け、洗面所のドアを開けようと力を込めたその瞬間。

 何かがぶつかる衝撃。僕が何かにぶつかる衝撃。そして、何かに押し付けられる衝撃があった。

「……」

 僕は呆然として言葉が出ない。状況が飲み込めない。

 バタン、とドアが閉まる音がやけに乾いて聞こえた。

 

 僕は花岡さんに洗面所へと押し込まれ、彼女によって壁へと押し付けられていた。

 花岡さんは僕のみぞおち辺りに顔をうずめている。

 僕は言葉が出なかった。


 

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