第30話 静かな夕べ

 両親が帰った後は、山の自然が奏でるが僕らを包んでいた。

 時折、ハルと更さんの笑い声が聞こえる。二人はゲーム好きということもあり、ハルが持ち込んだゲーム機で盛り上がっていた。

 ここは山深く、ネットの電波も届かないという現代では非常に珍しい土地と言える。実際に来るまでは知らなかったことだが、僕は多少の不便さを感じたもののすぐに諦めがついた。深く考えなかったというべきか。

 静かにのんびりでき、しかも涼しいなんて最高じゃないかとも思う。ここで暮らすのは不便だろうが、数日過ごすくらいならば問題とは感じなかった。

 母が置きっぱなしにしたラジオのスイッチを入れる。乾いたアコースティックギターの旋律と、男性の甘い歌声が聞こえてくる。古い曲のようで、時々ノイズが混じった。

 ウッドデッキの床が軋む音を立て、理人が現れた。

「樹も眠たいのか?」

 理人の持つ琺瑯ほうろうのマグカップからは白い湯気が揺らいでいた。父が差し入れとして置いていったコーヒーを早速入れたのだろう。香ばしい香りが漂ってきた。

「え、まだ9時だよ。眠くないよ」

「嘘つけ。眠たそうな顔してるぞ、お子ちゃま」

 飲むか、とカップを差し出されるが、僕は首を振る。

「いい。コーヒー飲むと眠れなくなるから」

 理人は破顔して大きく笑った。

「ね、その後は困ったことは起きてないの?」

 理人がカップから口を離したのを確認して、僕はずっと気になっていたことを問いかけた。

「具体的にどんなことをされているの?」

「奴は変態野郎さ。会いたいとか好きだとか……今のところはメールで送りつけてくるだけ。ブロックしても別のアカウントから送ってきて、イタチごっこさ」

 ふん、と乱暴に嘆息したきり黙る。理人は僕からは見えない方へ顔を背けた。

 辺りには虫の、川のせせらぐ音、木々の葉擦れの音だけだ。

 僕はふと思い出して話題にする。

「そういえば、僕の父さんも昔ネットで嫌がらせをされたことがあるらしいよ」

 そのことに興味を惹かれたのか、僕の方を向いた。

「へぇ」

 余程意外だったのか、目を丸くしている。

「僕もあんまり深くは聞かなかったんだけど。父さんはこれから有名になるぞって時にネットでデマを流されて、それでしばらくここに隠れて暮らしてたんだって」

 そこまで話すと、理人は真剣な顔で考え込むように黙ってしまった。

 知ってる情報もここまでなので、僕も黙る。

「僕、シャワー浴びて部屋に行くね。まだここにいるなら、足元の蚊取り線香よろしく」

 立ち上がりながら声をかけるが、理人は返事をしない。じっと考えているようで、虚空を見つめたまま。

「おーい、理人くん」

 何度か声をかけるが、応答はない。仕方ないので、理人と蚊取り線香はそのままにすることにした。シャワーを終えたら見に来ることにしよう。

 部屋に入ってからもう一度振り返る。理人は微動だにしない。

 一口だけ口をつけたコーヒーは、もう冷めてしまっているだろう。


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