第29話 意外な過去
わいわいと賑やかな夕食を終え、各自分担して片付けも終わった。まだ熱い鉄板などは明日片付けることにして、非日常な涼しい夜を思い思いに楽しんでいた。
足元に蚊取り線香を置きウッドチェアに腰かける母は、一人静かにラジオを聴いていた。目をつむり、眠っているかのような母に小さく声をかけた。
「……母さん」
「ん、なぁに?」
眠っているかと思われたが、思いの外しっかりした声が返ってきた。
「母さん、僕はここに住んでいたんじゃないかな?」
胸が早鐘を打つ。どうしてこんなにも動揺しているのだろう。そのことがとてつもなく不安を
「……覚えてたんだ?」
母が小さく笑った。いつもの彼女にはない、冷たさを含んだ笑い方だった。
「まだ幼稚園にも行かない年だったけど、それでも覚えているものなのね」
ふふ、と吐息だけで笑うと、悲しそうに僕を見た。
「そう。あなたとお父さんはここで暮らしてた。半年くらいかしら? 自宅はどうしても暮らせない状況になっていて、ここに身を寄せた」
「自宅が、暮らせない状況……?」
声に出して
「うーん。お父さんがあの店を始める前、なにをしていたのか話したかしら?」
「脱サラして店を始めたってだけ」
そう、それが10年ほど前と聞いていた。
「お父さんね、ちょっとした有名人だったの。バンドマンでね。でも、まだまだ駆け出しだったのよ。これからもっと有名になるってときに、ネットからデマが流されたの」
「デマ?」
全く知らなかった父の過去。知らなかったことがあまりに多くて、理解が追いつかない。
「そう、ひどいデマ。根も葉もないデマだったけど、じわじわと浸み出したそれを、デマだと証明する
思い出すのもつらいのだろう。母の声は震えていた。よく見れば、その肩も握られた拳も小刻みに震えていた。
「それでね、落ち着いて暮らせるまでの間、ここで暮らしてたってわけ」
そこまで話し、大きくため息をついた。苦しい記憶を吐き尽くすように、長い
そうして顔を上げた彼女は、すでにいつもの天真爛漫とした母に戻っていた。
「なんだかんだ、楽しんでたみたいでね。帰った頃には吹っ切れてて、それからすぐに仕事を辞めて喫茶店を開く準備を始めたのよね」
母を呼ぶ父の声が聞こえる。
「成美ー! そろそろ帰ろう」
「はぁーい!」
母は返事をすると、弾むように立ち上がり楽しそうに僕を見上げた。そして、眩しそうに目を細める。
「あの小さかったキキちゃんがこんなに大きくなって」
母はとても小さい。日本女性人の平均的な身長よりも小さい。それでも、母は頼もしい。母が笑っていれば、大抵のことは大丈夫なんだと安心することができた。
「わたしたちは帰るけど、戸締まりには気をつけて。はしゃぎすぎて夜更かししないようにね!」
からかうように脇腹を小突かれる。いてっ、と言った唇がむず痒く、僕は苦笑する。
「母さんこそ、寝坊しておじいさんに怒られないようにね」
「あー、そうだった。あのじいさん早起きなんだよなぁ」
母は苦い顔をして肩をすくめる。そして手を振りながら、父の待つ車に駆け寄っていった。
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