第28話 記憶を呼び起こすもの

 昼食のあと、僕の両親たちはこの住居を一旦離れた。母は車から大きく手を振って言った。

「また夕食の時間になったら手伝いに顔を出すけど、それまでゆっくり遊んでね~」

 この山のふもとに祖父が住んでおり、彼らはそこに泊まるとのことだった。ここはその祖父の山遊び用の小屋なのだそうだ。

 僕らは軽装に着替え、川遊びをすることにした。山だから気温が低いとはいっても、水遊びは気持ちがよかった。小さなサワガニを見つけると、僕たちは子供のように盛り上がった。

 花岡さんも更さんも短パンにサンダル姿で、川に足を浸していた。普段は見えないような太ももまでも露になっており、その白さに眩暈めまいがしそうだった。

 ひとしきり遊び、建物に戻ってそれぞれが着替えを終えた頃。太陽は西へと傾き、夕暮れへ向けてその色彩を変える準備をしている時刻だった。

 僕は建物から出て、何となく敷地の周りを散策していた。少し分け入ればクヌギの木も多く、虫捕りもできそうだ。浅瀬の小川もあり、子供の頃山遊びに来ていたというのもうなずける。

 父から虫捕りの話を聞いたとき、その記憶があまりないので、それは幼稚園にも入っていない頃のことではないかと思っていた。

 ただ、ここをこうして歩いているうちに不思議な感覚に襲われた。

 繋がらない記憶の欠片かけらが断片的に見つかるのだ。その感覚が、ここに来るのは初めてではないと訴えてくる。

 初めてどころではない、一度や二度ではない。

 ここに、僕は―――。

「住んでいた……?」



 太陽は赤く姿を変え、山の影に隠れようとしていた。辺りは暗くなり、外に灯りををつけて僕らは炭火を囲んでいた。今夜はバーベキューである。

「たくさん持ってきたから、じゃんじゃん食べてね!」

 母がドドンと肉の皿を置くと、「おお~」と歓声が上がる。

 ここでも理人が見事な仕切りっぷりを見せ、母を感心させていた。

「理人くん、うちに一人ほしいわ」

「恐縮です」

 理人は手を胸に当て、うやうやしく一礼して見せた。一連の所作がいちいちかっこいい。

 母がここまで理人を褒める理由なら、僕はわかっていた。理人がイケメンだとかそういう理由ではない。

 母は家事がかなり苦手なのだ。とりあえずはやる。けれど好きなわけではなく、いつもどこか抜けていた。それを父がさりげなくフォローする。

 物心が付くより先に見ている光景だったので、夫婦ってこういうものなんだなぁと幼心に思ったものである。

「ママさん、これって……」

 理人がなにかを言いかけるが、多少の酒でほろ酔いな母がめんどくさく絡み出す。

「いやん、成美って呼んで!」

「はは。成美さん? 成美ちゃん?」


 ―――成美ちゃん


 瞬間、淡い痛みに襲われた。

 古い記憶の中にしまっていた声がよみがえる。胸を焼く。チリチリとがす。

 無意識にシャツの胸元をきつく握りしめる。浅い呼吸を繰り返し、目を閉じる。やがて心の中にる大きな水溜まりに身をひたす。

 降り続ける、あの日の白雨はくうがもたらした、枯渇することのない水溜まり。

 胸を焼き始めていた火種はすぐに消えた。雨は止まない。

 大きく息をき、目を開けた。


「やっぱり、成美さんで」

 にっこり笑ってそう言った母の声は、明るかった。

「で、なんだっけ?」

「この鉄板…」

「そうそう。このあと焼きそばを作ろうと思ってるの」

「じゃあ、油をひきますね」

 こうも明るく振る舞う母の胸の内に、今も降り続け降る雨が在ることなど、僕は知りもしなかった。

 



 


 

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