第16話 アルバイト

 なにも予定のない夏休みを謳歌おうかしようという目論見もくろみは、相当に甘いものだったということがわかった。そんなことわかっていたはずなのに、なぜ夏休みというものを前にして浮足立ってしまったのか。

「デリバリー入ったぞ」

「ハイ、マスター」

 差し出された数個のカップを保冷バッグに入れながら、僕は諦めの境地に佇んでいた。

 暑い最中さなかにコーヒーを買いに出る人は稀有けうな存在だ。尊敬に値する。

 こうした理由で真夏にはどうしても売り上げが下がってしまう。

 近隣であればデリバリー対応して店の売り上げを支えることも大切だ。僕はその重要な担い手としてこうして自転車を走らせている。

 10分ほど走り切り、シンプルなビルに着く。受付に部署名を告げると、2階と案内された。

「失礼します。デリバリーでーす」

 声をかけながらドアを開けると、そこには見たことのある顔。予想外の人物に、僕はしばらく固まってしまった。

「おい、不審者っぽいぞ」

「しっ失礼しました! えーと……理人りひとくん?」

 理人に呆れたように声を掛けられ、僕は狼狽ろうばいする。

「なんで理人くんがここに?」

「仕事だ。他になにしているように見える?」

 理人の偉そうな態度にも慣れたものである。むしろ安心するくらいだ。

 理人の上司だろうか。恰幅かっぷくのいい男性がにこにこしながら出てきて対応してくれた。

 僕は、「へー、そっかー」と理人に相槌あいづちを打ちながら、指定されたテーブルへコーヒーを並べ、料金を受け取る。

「ありがとうございました」

 愛想よく礼を言ってドアを閉めようとすると、理人も一緒に出てきた。

「え? 理人くん、見送ってくれるの?」

「バカか。俺も帰るんだよ」

 吐き捨てるように言った理人に、その長い足で蹴りを入れられた。

 玄関まで来て、理人が立ち止まった。

「お前、自転車か?」

 そうだと僕が答えると、理人は「お前んちの喫茶店に集合な」と言って、ひらひらと手を振った。



 僕が店に戻ると、理人が奥のテーブルで待っていた。

「お疲れ」

 短く言いながら唇を吊り上げる仕草は、男の僕から見てもかっこいい。

 僕は首筋に垂れた汗をタオルで拭きながら、理人の対面に腰を下ろした。

「あぁ、涼しい~」

 僕は生き返るような心地で深呼吸をする。外は暑くて地獄だ。

「この店、すごくいいな。いつきのお父さん、センスいいよ」

 理人がカップに口を付けながらさらりと言った。僕は胸がギュッとなるのを感じて、勢いよく身を乗り出す。

「理人くん!」

「わっ! なんだよ、俺が褒めちゃいけないのかよっ」

 理人が照れ隠しのように顔を背けるが、僕は気にしない。

 そんなことより―――。

「久しぶりに名前で呼ばれた~~~」

 正しい名前で呼んでくれた理人に抱きつきたいほどうれしい。

「きっ気持ち悪いな! 寄るな、バカ!」

 不穏な何かを察知した理人が防御の姿勢をとる。僕は仕方なく座り直した。





 




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