第3話

 五郎とは、会社の屋上で話をしたのが最後だ。恋人を奪った行為は、さすがに後ろめたく、もう一度謝りたかった。たぶん自分が救われたいが為に。

 昼休みの屋上には、社員が何人かいた。弁当を食べたり雑談をしたり。珍しく暑さが和らいだ、過ごしやすい日だった。

 私たちは、そんなのどかな関係ではなくなっていたが、久しぶりに見る彼の顔は憑きものが落ちたように穏やかだった


「もうすぐ結婚するんだろう、おめでとう。彼女にもそう伝えてくれ」


 私は返答に窮した。嫌味を言われた方が楽だった。


「ありがとう」


とりあえず礼を述べる。今さら言い訳を繰り返しても無意味だ。

 薄日さす空の下、屋上のフェンスに並んで寄りかかる。遠くのビル群の上空を飛行機が飛んでいくのが見える。

 二人とも黙ったままだった。何をしゃべればいいのか、言葉が見つからない。

 少し間があって、五郎はつぶやいた。


「結局、同じことの繰り返し」

「なんて言った?」


 彼の日焼けした横顔に訊いた。


「結局なにも変わりはしない、人生はそういうものだとわかったんだ」


 しばらくぶりの彼は、ショックが続いたせいか前と雰囲気が違っていた。私のせいだと承知はしていたが。


 「俺も奴も、君だって同じさ」


 その謎の言葉が五郎との最後のやりとりになった。

 ただ、今でもふにおちないことがある。私の前で大粒の涙を流した彼女が(あれは五郎の為だったはずだ)、なぜあんなすんなりと私になびいたのだろう。

 あまりに強引だったからか、或いはもしかしたら私から仕掛けたつもりが本当は逆だったのでは?

 首を傾け、窓辺でぼんやりと立っている妻の横顔を見た。彼女は小雨が降り続く窓の外を眺めていた。

 私は混乱していた。入院に至った経緯がよくわからない。妻が口にしたシンジという名前も心にひっかかったままだ。

 階段で気絶した時のことをもう一度思い出してみた。


 直前、地面が揺れた

 夕焼けの燃え立つ色におののいた

 それから弾かれたようになって・・・

 ああ、そこまでだ


 私は左手をついて体を起こそうとした。目覚めてすぐのせいか、体が思うように動かない。それでも何とか起き上がった。

 と、左手首に包帯が巻かれているのに気づく。怪我でもしたのだろうか。そういえば五郎は手首を切って自殺したらしい。

 妙な符号にぞっとしたが、すぐに気を取り直し、私はベッドの周りを見渡した。

 枕元に視線が止まる。信じられないものがあった。中山五郎と記されたネームプレートが掛かっている。私のベッドにだ。

 なぜ、どうしてここにあいつの名前が?血の気がひいていくのを感じながら、しばしその文字を見つめていた。


 中・・山・・五郎・・・


 なか・・やま・・ごろう・・・


 突然、かろうじて保っていた理性のたががはずれた。酸素マスクをむしり取り、私は獣のように吠えていた。


「これは何のまねだ。俺は五郎じゃない。あいつは死んだんだ。なんであんなものが掛かっているんだ」


 思わずネームプレートを床に投げつけていた。

 妻は反射的に振り返り、私の剣幕に呆然と立ち尽くしていたが、すぐさま身をひるがえし、私を尻目に外に出ていく。

 タイトスカートの深いスリットが割れ、白い素足が見え隠れした。青いピンヒールが鮮やかな光を放ち、たちまち視界から消えていく。

 あとを追おうと私は急いでベッドから降りた。壁の鏡に、浴衣姿の中山五郎が恐怖に顔を歪めて立っているのが映る。目と目があった瞬間、私の全身は凍りついた。


「先生、主人がおかしいんです。すぐお願いします」


 ヒールのかつかつという音とともに、妻の上ずった声が廊下の方から聞こえてくる。

 私は放心状態のままだった。

 妻につづいて、白衣を着た若い医者が病室に入ってきた。すらりとした背の高い、彫の深い顔をした男だった。

 彼はきびきびとした調子で言った。


「落ち着いてください、興奮しているだけだと思いますから」


 ふたりの視線が一瞬からんだ。

 彼はくるりと背を向け、それから急に険しい顔に変わり私の方に近づいてきた。鋭い眼の奥がジェラシーで光っていた。

 医者の手がおもむろに私の体に触れようとする。

 殺される、なぜか確信があった。

 部屋の隅で、妻が不思議な笑みを浮かべている。血走った、ギラギラした目。まるで邪悪な魔女のような・・

 私の全触角は絶叫した。

 頭のてっぺんから足先まで、経験のない悪寒が走る。

 点滴の針を抜き布団をけって、裸足のまま廊下に飛び出す。後ろを振り向きもせずに、目茶苦茶に走り、階段を下にどんどん降りていった。

 助けを呼ぼうにも、入院患者も看護師も誰ひとり見当たらない。さっき医者がいたのだから病院じゃないのか・・薄闇の廃墟をさまよっているようだった。

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