第2話
どのくらい時間が経ったのか・・
白い天井、白い壁。見慣れない殺風景な薄暗い部屋。
ここはどこだろう?
窓の外は、どす黒い雲が広がっている。雨が降っているのだろうか。
「気がついて良かったわ」
ベッドの傍らでとつぜん女の声がした。
見覚えのある形のいい唇が目に飛び込んでくる。妻が心配そうに、自分を覗き込んでいた。
小ぶりな顔が巧みに薄化粧され、物憂げな表情がつい見惚れてしまう程あだっぽい。私をあっという間に虜にした、魂を揺さぶるような魔性の色香。
酸素マスクをして、右腕に固定した注射針で点滴をしている自分の姿に、すぐには事態がのみこめなかった。
ここは病院だろうか。階段で倒れた時のことは、うっすらと覚えている。
だが、こんなに大げさなことになると思わなかった。
「もう何も気にしなくていいのよ。あの人は勝手に死んだのだから」
妻は私に頬を寄せて、こともなげにささやいた。
その口調の冷たさに少なからず驚いた。中山五郎の死にあれほど取り乱していたのに、人が変わったかのように平然としている。
前髪をかきあげながら、彼女はふっと含み笑いをした。そして、きっぱりと言った。
「結局、弱い人だったのよ、信次さんは」
シンジ?
誰のことだ?
死んだ男は中山五郎だ。
私は問いただしたかったが、酸素マスクをしていたので無理だった。それにしても五郎は妻の前の恋人だ。
その男の名前を勘違いするなんてことがあるのか。それとも私の頭がおかしくなったのか。
何が何だかわからない。ふいに昔のことが思い出される。
私と五郎は大手商社の同期だった。社交的な私にくらべ、彼は不器用で世渡りがへただった。
一緒に仕事をしても、彼の決断力のなさにその度イライラしたものだ。お人好しで機転もきかず、対処できなくなるとその場しのぎのことをしてしまう。
東大出身という申し分ない学歴の持ち主だが、商社マンには向かない男だった。大学のレベルでは少々負けたが、私の方がずっと上司に気に入られていた。
あれは妻と出会ってすぐのことだ。ちょっとした失敗がもとで会社に大損をさせた五郎は、当然のごとく次の人事で出世コースからはずされてしまった。
「ポカやっちゃったなあ、もう軌道修正できないかもしれない」
いつになく暗い顔を見せた。
「自分一人だけだったらかまわないけど、彼女に悪くって。華やかな世界を好む人だからね」
「恋人のピンチなら助け合ってくれるんじゃないのか?」
しばし無言のあと、五郎は答える。
「彼女は楽しくなければ嫌なんだよ、つまらない話は好まない。落ちこぼれの愚痴なんかウンザリされるだけさ。前の奴も・・」
「前の奴?」
私はオウム返しに尋ねた。
「何でもないよ、今の話は忘れてくれ」
五郎はそれきり黙ってしまった。だが彼女の意外な一面を知った気がした。気落ちしている彼を励ますそぶりをしながら、私はそれにかこつけて彼女に近づいた。
二人で慰めようなどと、ていのいい口実を作って。
やさしい人ねと、彼女は涙を浮かべて私を見つめた。ふせた長いまつげの陰は、どこか淫靡で幻惑されそうな気持になる。
「五郎、しばらくは落ち込んでいるだろうけど、すぐに立ち直るさ。もともとエリートなんだし実力もあるし」
私は心にもないセリフを言う。
「・・・そうね」
「そうだよ。君みたいな素敵な人がいるんだから、君の為にももうひと頑張りしなきゃダメさ」
ますます心と裏腹な言葉。五郎がこのまま失脚するのを望んでいた。
だってそうだろう、こんな最高の女が彼の恋人だなんて・・羨望と嫉妬の気持ちしかなかった。
二人で公園を歩いた夜道。茂った樹のあいだから、何度か怪しげな月を見た。どろりとした卵黄色の、大きく湾曲した三日月。死神が鎌を振り上げる不気味なシーンが脳裏に浮かぶ。裏切り者は処刑されるのだろうか。
「五郎がうらやましいよ、君みたいな女性は男の理想だもの。あやかりたいぐらいだ」
つい本音を口にした。彼女は足を止めて私の方に向き直る。
妖艶な瞳。とつぜん冷たい指先が私の耳たぶに触れた。
「私、あなたを好きになったみたい。五郎さんがいるのに、こんな風な気持ちになるなんて、私はふしだらな女ね」
そんなことはない、不意の告白に心臓がバクバクさせて答える。
「・・本当に?私のこと、軽い女って軽蔑しない?」
「しないよ、するわけないじゃないか」
死神が鎌を振り落とし、冷たく鋭い刃先が私の首筋をかすめた。いびつな三日月が瞼に浮かんでは消え、思わず目を伏せる。
「どんな罰も甘んじて受けるよ、君が私のものになるのなら」
「五郎さんに申し訳ないわ、でも・・自分の気持ちは自分でもどうしようもないの」
彼女は私の胸に飛び込んできた、いとも簡単に。
「わかっている、二人とも同罪さ」
私はせつないほど胸が高鳴り、自分を抑えきれず、そして・・彼を裏切った。断罪されてもかまわない。後悔はなかった、彼が死んだ時でさえも。
彼女の裸体はひんやりと冷たく、白光りしているかに蒼白かった。皮膚の下を流れる血までもが蒼みを帯びているような肌。抱き寄せれば煽情的な豊かな胸や太もも。
私は神々しささえ感じた。彼女のまわりだけは時間が止まっているかに錯覚する。ギリシャ神話のアフロディテは、その肉体で幾人の男を惑わしたのだろうか。
はじめて一夜を過ごした時、私は覚悟を決めたのだ。出会ってしまった運命を受け入れようと、絶対に彼女を手放すまいと。朝が白んでくるまで、まんじりともせず女の端正な寝顔に見入っていた。
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