第4話

 ここはどこ?

 自分は何者だ?

 夢か幻を見ているのか?

 それとも私は狂ってしまったのか?


 疑問が渦になって頭の中をこだまする。

 とにかく逃げるしかない。私は息をきらして階段を駆け降り、ついに狭い廊下にぶつかった。緑色の避難誘導灯の向こうに、防火扉が閉まっているのが見える。

 どこかで階段を降りる足音。だんだん音が近づいてくる。

 きっとあの医者だ、ここまで追いかけてくるにちがいない。

 重い防火扉を力いっぱい両手で押して開ける。たとえ冥府への入口であろうと迷っている間はなかった。

 いきなり妙な匂いが鼻につく。身震いするような冷気が充満していた。

 ・・・地下室だろうか?

 真っ暗闇で何かが焦げたような臭い。線香のかおりもどこからか漂ってくる。

 まさか霊安室?

 金縛りにあったみたいに体が硬直する。紐がほどけて乱れ切った浴衣姿。ざらついた床の上に裸足で立っていた。

 ・・おびただしい砂?ここになぜ?足が砂にめり込んで発狂しそうに気色が悪い。

 遠くで何やら変な声がする。すすり泣きに似た、はかなげな声だ。


 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・


 誰かがお経を唱えてる。

 男の声なのか女の声なのかわからない。というより聞いたこともない音声。黄泉からの交信かもしれないと漠然と思った。

 恐怖も頂点に達したら麻痺するのか、私は操り人形のように、その声の方にゆっくりと歩んでいた。

 蜃気楼が現われるように回りがしだいに明るくなって、献花に埋もれた祭壇が見えた。

 白い薔薇や菊、満開のカサブランカがびっしりと飾られている。カサブランカの癖がある濃厚な香りが、私は大嫌いだった。

 むせかえるような香りの奥の祭壇に、誰かの遺影がある。目を細めて視るが若い男性のようだ。

 中山五郎の通夜そして葬式に行った日のことを思い出す。悪夢を見ているのか?


 それなら早く覚めてくれ!


「お悔やみ申し上げます」

 とつぜん背後で大声がした。振り向くと、さっき病室にいた医者だった。のけぞって後ずさりをする。


「そんなに驚かなくても、いいじゃないですか。すっかり嫌われちゃったなあ」

 

 医者は嬉しそうに笑った。


「妻は・・どこにいるんですか?」


 私の質問に答えず、金属的な高い声で気が狂ったように、


「お悔やみ申し上げます」


 を連呼する。そして、ついには白衣のポケットから太い注射器を取り出す。

 まさか毒薬?目が点になる。

 うすら笑いを浮かべ、注射器を上に大きく振りかざして迫ってくる。蛇に睨まれた蛙のように、フリーズしたままだ。


「ねえ、中山五郎さん。君もあの人みたいになりたい?」

 

 医者は祭壇の遺影を指さした。今度ははっきり見えた。見まごうことなく、銀縁眼鏡をかけた私の顔写真だった。

 魂を抜かれたように見入る。

 いきなり医者が私の腕をつかんで、容赦なく注射器を突き刺す。左手首の血がにじんだ包帯がほどけた。

 憶えのない生々しい傷跡。

 いったい、いつどこでこんな怪我を?

 でも私は中山五郎じゃない、五郎は死んだが私は生きている。遺影は誰かの悪戯だ。

 強い眠気に急に襲われ、失神しかけた私の耳に生臭い息が吹きかかる。


「彼女はいただきますよ、君には悪いと思っているけど」


 致命的な言葉。


 医者のほくそ笑んだ顔がぼやけて、視界から消えていった。

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