漫然の報い「サンケンブンリツ」

 すでにほとんどの生徒は帰ったようで校舎内は静かだった。


 先程通った廊下の窓から見えた校舎の外側にはちらほらと人の輪や塊が見え、抱き合う者や背中を摩る者などがいた。まさに青春的卒業式という感じである。


 そんな中、俺はというと、今現在職員用の狭いトイレにアンポンタンにぶち込まれたところだ。どうなってるの俺の青春。


「さてぇ。氷花ちゃん、じっとしててねぇ?」


 霜平はそう言うと、突然俺の身体を上から下までくまなくなぞるように自身の右手を這わせ始めた。

 触れそうで触れない絶妙な手の這わせ方に、触れられていないのにくすぐったくてたまらない。ってなにされてるの俺。


「せ、先生? 何を」

「んもう。恋涙なみだでいいってばぁ」


 こんな狭い密室で、何を……あ、そこはっ。ら、らめええ。

 って、だから触れられてはいないんだけどね。何のプレイだよこれ。


「よし! 大丈夫みたいねぇ。もういいわよぉ」


 何が大丈夫で何がもういいのよ。

 全身から変な汗が吹き出しながら、俺は目の前の笑顔の顧問に問う。


「それでなんでこんなところに呼び出したんですか。ここ職員用のトイレですよね」

「えぇ? あー、それはねぇ」


 それでなくても狭いのに、霜平は壁際の俺に詰め寄ってくる。

 近くで見る霜平は、悔しいが綺麗で色っぽい。


「今からすることを、だーれにも聞かれたくないからよぉ」

「な、何をですか」


 こんな狭いトイレで若い――の定義を広く持つとして――男女二人きり、聞かれたくないことと言えば……。


「うふふ、ビジネスの話!」


 そう! ビジネスの話!

 狭いトイレで男女二人ですることと言えば、ビジネスの話に決まってる! 知ってましたよもちろん。泣いてなんかないぞ。


「もう凛ちゃんとピノコちゃんには話したから、あとは氷花ちゃんだけよぉ」

「わざわざこんなところ来なくたって、音楽準備室でみんなで話せばよかったでしょ。そうすれば一回で済んだのに」

「えー? 駄目よ、あそこじゃ」

「何故ですか?」


 にじり寄る霜平に、俺が背中で壁を押す圧力を増やしながら問うと、


「あそこには、ずっと前から付いてるもの」


 霜平は自分の右耳を指差しながら目を細めて、こう言った。


「盗聴器」


 ◆ ◆ ◆


 どうやらビジネスの話というのは本当らしく、霜平はスーツの内ポケットから名刺サイズの紙を一枚俺に渡してきた。


 霜平探偵事務所――そう書かれた無駄にキラキラと光る紙を見て、俺はどんどん自分の顔のパーツが中央に寄っていくのが分かる。


「とりあえず氷花ちゃんと凛ちゃんが大学生の間は、ピノコちゃんと私が二人でなんとかやっていくわぁ」

「はぁ」


 あの嘘みたいな話は本当だったようである。

 もうちゃんと就活するからその話はナシに……なんて言ったら殺されるかな。


「とりあえず、覚えておいてほしいことは二つよぉ」

「なんですか」


 霜平は今度はスーツの腰ポケットを探り、取り出したものを俺の手に握らせてきた。

 体温で若干溶けかけている個包装のチョコレートだった。ちなみに苺味だ。


「それが、合図よぉ」

「このチョコが?」


 訊きながら視線をチョコから霜平に戻して俺は息を呑んだ。

 霜平の表情がいつものだらだらへらへらではなく、時折見せる真面目な顔になっていたからだ。


「基本的には私が相談を見極めて取り次ぐわぁ。それを氷花たちがなんとかするわけだけどもねぇ」


 ……今までもそうでしたね。勘弁してくれって思ってましたけど。


「そのチョコが、私が氷花くんにお願いするっていう合図。相談者は必ずそのチョコを氷花くんのもとにもってくるはずだからぁ。逆に言えば、それを持って来ない相談は私とは関係ないってことよぉ。覚えておいてねぇ?」

「……はあ」


 ……はああああ。

 そりゃため息も出ますわ。

 要するに、いつまでも俺はアンタの持ってくる厄介事を何とかしなきゃならないということだろう?


 これでもしも安月給だったら、すぐにでも転職してやる。……そんときゃ凛堂もついてきてくれるのかな? 一緒にパン屋さんなんか開いてさ。オリジナルパンを凛堂が作って、それが死ぬほど個性的で美味しくなくて……ってそれ以前に俺フラれたんだけどさ。ぐすん。


「それともう一つ」


 霜平は腕を組み、若干苦い顔をしながらこう訊いてきた。


「今までの氷花くんと、これからの氷花くん。お仕事をする上で、一番違うことって何か分かる?」

「違うことですか」


 お仕事、というのは『相談を処理する』的なことか?

 今までとこれから……違うこと?


「……意気込みとか、やる気とかですか?」

「あはは! そんなんじゃないわよ、氷花ちゃんバカなのぉ?」


 ビキッ。今俺のこめかみの血管は激しく音を立てて浮き上がりました。

 お前にだけは『バカ』と言われたくねえ!


「じゃあなんですか」

「決まってるでしょう? 『手段』が使えないってことよぉ」

「手段……」


 俺の手段――それは下僕の陽太のことを言っているのだろう。

 俺が今までぶち当たってきた問題や相談をどう導くか、そのために一番重要であった『情報』を、迅速かつ的確に集めてくれたのが陽太だった。

 下僕無しでは確かに成り立たなかったかもしれない。


「あの男……凛堂陽太はこれから私たちの最大の敵になるわぁ。私の下で働くとなると、アイツは絶対に協力してくれないと思うからぁ。いくら凛ちゃんのマスターでも、ね」

「そう、ですか」

「これからは、凛ちゃんと琴美ちゃんと三人で上手に協力して相談をこなしてもらうことになるから、覚えておいてねぇ」


 霜平は何故か優しそうな顔をしてそう言った。


「……とは言っても、俺に何かできるとは思えないんですけど」

「えぇ? 大丈夫よぉ。前も言ったけど、氷花くんの曖昧な与式から最善手を見つけられる能力は本物よぉ。ピノコちゃんの顔の広さと対人における柔軟性と交渉術、それから凛ちゃんの調査力も馬鹿にならないわぁ。あの陽太までは行かないけどなかなかのものよぉ?」


 ん。なんかやっぱし褒められるとちょっと嬉しい。俺褒められて伸びるタイプかも?

 ……いいように使われているだけ、とも言うけど。


「それに、凛ちゃんは特殊だから。それも上手く使えるようになったら氷花くん無敵になるかもねぇ?」

「特殊……ですか」


 ――魔性、です。

 彩乃が言っていたな。どういう意味かはいまだによく分からないが。


 俺が首を捻っていると、霜平はいつものニヤケ面に戻って、


「多分、今音楽準備室に戻ったらどういう意味か分かると思うわぁ。凛ちゃんにベタ惚れの氷花ちゃんにはちょーっと嫌な使い方かもしれないけどぉ、駆使できればかーなり強みだから、がんばってねぇ?」

「もう何が何だか」

「ふふ、簡単に言えばぁ、三人で仲良く頑張ってねってことよぉ」


 そう言うと霜平は俺に身体を擦りながら強引に職員用トイレから出た。俺もそれに続く。


「あーあと、これから着るものには注意してねぇ?」

「え?」


 ファッションのこと? 確かに大学は服装自由だけども……俺センスとか皆無だ。雑誌読めとかそういうこと?


「一応これも渡しておくわぁ。電源入れてから、全身に当ててみてねぇ。もしもランプが光ったら服に付いてるから注意よぉ」


 言いながら俺の手に小型のリモコンみたいな黒い物体を渡してきた霜平。


「何が付いてるんですか?」


 霜平は自分の右耳を指差しながら目を細めて、こう言った。


「盗聴器」

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