化け物「ヒノ コトミ」

 緑色のリボンに琴美の顔から滴り落ちた汗が滲み、楕円形の深緑色ができた。


「四ノ宮が? 俺に話?」

「うむ。大事な話、だそうだ。書記ちゃんは若干頬を染めていたぞ。きっと何かそういう話だと思う」


 カレーをフォークで食べるような、確かな気持ち悪さが俺の中で湧いている。

 な話、ね。


「生徒会室に来てほしい、だそうだ」

「なぁ琴美」

「なんだふーくん」


 もしかしたら、俺は気づけなかったかもしれない。

 冷静に考えればちょっとおかしなことにすぐに気付けるはずなのに、である。


 ――『大事』よりも『大切』のほうが、ほら、……大切な感じがするでしょ?


 四ノ宮の意味不明な言葉が蘇る。


「何をそんなに焦ってるんだ?」

「……どういう意味だ? 私は書記ちゃんの伝言を」


 俺は未だ呼吸の荒い琴美をしっかと見つめながら首だけを振る。

 痺れるような緊張感がさっきから渦巻いている。


「なあ琴美」


 もしも彩乃のアドバイスが無かったら、俺はすっかり琴美の術中だったかもしれない。

 それだけ俺は琴美のことをと思っていたからだ。


 でもこうして、彩乃の最後のアドバイスはしっかりと俺の中で正しく機能してくれた。


「どうして、そんな嘘をつくんだ?」


 ――今日のあの化け物は恐らく、本性を見せるはずです。


 この彩乃のアドバイスに「どういう意味か」と問うた俺には、敵意むき出しの表情で「自分で考えて下さい」という辛辣な言葉が返ってきた。


 琴美の不自然な汗も、上擦った声も、伝言という嘘も、見逃していたかもしれないと思うと、つくづく自分の無能さに嫌気がさす。タンポポとかにでも転生しちまいたいね。


「な、何を言ってるんだ? ふーくん」

「四ノ宮からのな話は、もう聞いたんだ」

「え」


 琴美の動揺なんてものを初めて見たかもしれない。

 そんな顔するんだな。普通の女の子っぽくて、良い表情だ。


 一歩後ずさりをする琴美に、俺は言葉を継いだ。


「もう一度訊くぞ。どうして、そんな嘘をつくんだ?」


 琴美は数秒固まったかと思うと、ゆっくりと目を閉じて顔を横に傾けていった。

 シ○フトかよってくらいの怖い角度まで傾けて止まると、琴美は再びゆっくりと目を開けた。


 開かれたその目は、俺の全身が強張ってしまうくらいの恐ろしい化け物のような目つきだった。


「アイツか。あのカラス女か」

「カ、カラス?」


 情けなくも震えてしまった俺の返事に、琴美は片方の口角をぐにゃりと歪ませてゾッとする笑みを浮かべた。

 鋭利な八重歯が俺を睨む。


「書記の腰巾着の入れ知恵だろう? 最後の最後であのカラス女に邪魔されるとはな」

「こ、琴美?」


 いつもの琴美とは思えないドスの利いた声だった。

 メイドの時といい、お前何色声色持ってんだよ。


「あーあ。しらけたな」


 琴美はおどろおどろしい顔のまま腕を組み、そっぽを向いてしまった。


 あまりの豹変した表情にちびりそうになるのを堪えながら、何なんだよその顔つきは、と心の中で叫んだところで、ふと俺の脳裏にある映像が浮かんだ。

 薄暗い和室、乱雑にテーブル置かれた缶の残骸、そして――。

 

「ねぇ? お母さんそっくりよねぇ? ピノコちゃんの表情」

「のわっ!」


 唐突な琴美の姿態の変化に完全に慄いていた俺の背後から大きめのあほそうな声が掛かり、俺はビクンと縦に伸びながら情けない声を出してしまった。

 俺のすぐ後ろにいつの間にか茶髪を泳がせる顧問が黒いバインダーを持ったまま立っていた。


「……まあいいか。まだいくらでも手段はあるしな。とりあえず今は…………またな、ふーくん」


 俺の背後にいる霜平を一瞥した琴美は歪んだ表情をスッと消し、いつもの顔と口調に戻ってそう言うと、静かに廊下の先に消えていった。


 残された俺は、手に蜂が止まった時のような、動くに動けない精神状態だった。

 琴美の恐ろしい悪魔のような表情が目の裏に焼き付いて離れない。


「氷花ちゃん、びっくりしすぎでしょ」

「い、いやだって」


 あの琴美さんが……素直でちょっと不器用でグイグイくる琴美さんが……。

 あれじゃ、まるで本当に『化け物』みたいじゃないですか。


「ピノコちゃん、ああいう顔私以外に見せるの珍しいよぉ? それだけ、氷花ちゃんに本気ってことでしょ」

「……はぁ?」

「あははは、氷花ちゃん、モテモテッ!」


 ――イタッ!!

 霜平がバインダーの角で俺の後頭部を攻撃してきた。なにすんねん。


「琴美ちゃん、本当に不器用よねぇ」

「ま、まぁそうですね」


 後頭部を摩りながら返事をすると、霜平はかぶりを振った。


「そういう意味じゃないわぁ。本当に氷花ちゃんは鈍いわよねぇ」

「何がだよ」


 お前もそれ言うのな。

 みんなして鈍い鈍いって……鈍いのも正常なメンタル維持には大切なことなんだぞ!(姉の請売り)


「もう知ってると思うけど、あの子はその人がどんなことをしたら喜ぶか、どんな性格を演じれば好いてもらえるかを察知することに長けているのよぉ」

「……そう、でしたね」


 以前、陽太に調査させたときに報告してくれた内容にあったな。

 問題のあった母親との暮らしで身につけたものとか。


「でも、今の氷花ちゃんに、ピノコちゃんはそれを使わなかった。今まではいろいろと演じてたのにねぇ?」

「今まで? 演じる?」


 霜平は髪を指でくるくると巻きながら、俺に可哀想なものを見る目を向けてこう言った。


「つまりぃ、さっき見せたのがピノコちゃんの本当の姿で、本当の思いってことぉ」


 あれが? あのコワーイ表情が?

 尿漏れに困る人の気持ちが分かるくらい膀胱緩みましたけど?


「で、でも俺琴美にその、プロポーズとかされましたよ? ことあるごとに『結婚』をせがんできてましたけど」

「あっははは! だから、もう一回言うけどぉ、ピノコちゃんは『その人がどんなことをしたら喜ぶか、どんな性格を演じれば好いてもらえるかを察知することに長けている』んだってばぁ。氷花ちゃん、嬉しくて、ピノコちゃんのこと好きになってたでしょ?」

「……」


 全部、嘘だったのね!?

 あのプロポーズも猛烈アタックも……やっぱり騙していたのね! ひどい! 男心を弄びやがって!

 生まれて初めてのことだったのに……どうして俺のもとに訪れる青春は歪んでいたり偽っていたりするんだよ……疑心暗鬼極めて角生えそう。


「まあ、でもでもぉ。ちょっと考えたら、あの不器用なピノコちゃんがどうしてこんなことしたか、わかるとおもうけどねぇ」

「こんなことってのは?」

「だからぁ、今さっき、氷花ちゃんに嘘ついたことだってばぁ」


 パ○プロの絶不調みたいな顔で霜平はやれやれと言いたげなポーズをとった。

 というか、お前がなんでそれを知ってるんだよ。見てたの?


「どうして嘘をついたか」


 ――自分で考えて下さい。

 彩乃の憤怒の表情と言葉が浮かぶ。


 ……いやいや、考えてもちっとも意味が分からん。

 というか頭の中ぐちゃぐちゃでうまく考えられない。


「相変わらず鈍いのねぇ。ま、先生は氷花ちゃんのそういうとこも好きだけどッ。あ、ちなみにこれは嘘じゃないわよぉ?」

「どうでもいいです」

「えぇーひどーい。先生ショックぅ。折角氷花ちゃんにたくさんいろんなコト教えてあげたのにぃ! 毎日先生のおうちで、二人っきりで!」

「妙な言い方をするな!」


 自分の身体を抱きしめる素振りの霜平を殴りたくなったが、確かに俺が聖応大学に合格できたのは紛れもなく目の前のアンポンタンのおかげだった。


「霜平先生」

「んー? もう氷花ちゃんったら。恋涙なみだでいいってばぁ」

「ありがとうございました」


 若干の抵抗を撥ね退けて、俺は深々と頭を下げた。

 コイツに頭を下げるなんて行為は、これが最初で最後になるといいんだけど。


「どういたしましてぇ。せいぜい大学四年間のモラトリアム楽しんでねぇ?」


 頭を上げると、霜平はいつものニヘラッとした表情ではなく、真顔だった。

 真剣な顔をすると綺麗なくせに、なぜか謎の緊張感が湧いてくる。


「四年かぁ。四年って言ったら……ゲゲッ! 先生もうお味噌さん越えちゃうじゃないのよぉ!」


 お味噌さんってなんだよ。味噌汁なら大根が好きです。


「えー! どうしようぅ、氷花ちゃん先生のこともらってくれるぅ?」

「や、遠慮しときます」

「えー、ケチンボ! ぷぅ」


 口を尖らせて「ぷぅ」とか言っちゃうアラサーとかマジで需要ないってば。

 まあその容姿と未だ未知数の頭の良さなら、きっとその内いい人が見つかりますって。


 ……厄介事を持ち込んでくる特性さえ隠していれば。


「さてとっ。良い感じに時間も潰れたし、先生やることがあるから行くわねぇ」

「はい。それじゃ」

「氷花ちゃんもこれからやること、しに行くんだもんねぇ?」


 その言葉で俺は隅に除けておいたやるべきことを思い出して一気に心臓が暴れだした。


「その為に勉強したんだものねぇ。ふふ、頑張ってねぇ? 大学四年のモラトリアムを色づくものにするためにも、ね」


 それだけ言うと、霜平はバインダー持った手をひらひらと振りながら琴美が消えていったのと同じ方向に消えていった。


 廊下に取り残された俺は、じんわりとした汗を感じながら考える。


 どうして俺の周りには頭の回転が速い奴が多いの?

 それともなに? 俺が頭悪いだけ? 分からないことが多いのは俺が馬鹿だから?


 琴美がどうして嘘をついたとか、彩乃がどうして助言をくれたのかとか、霜平がどうしてすべてを手に取るように知っているのかとか、そういう細かいところ分からないの俺だけ?

 もしかしてみんな分かってる? マジ?

 もしわかってるなら教えてくれない? ほら、今! 今頂戴?


 ってのは今更もうどうでもいいか。


 今は――。


 俺は視線を音楽準備室の方向に移す。


 見た目はこの一年間見てきた音楽準備室の扉そのものだ。

 だが今日はやけに重厚感があり、近づき難さを放っているように見える。


 汗が滲みながらも、ここまで来たら引くに引けない。

 男になる時がようやく来たのだ。


 一番最初にアンポンタンに言うはめになった、俺の想いをぶつけに行くとするか。


 ……。


 ちょっとその前に、トイレ。

 さっき琴美の圧で漏れそうになってからずっと我慢してた。膀胱炎怖い。

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