破られた希望「ヒノ コトミ」

 悲しいことが判明した。


 俺には勉強の才能がない。

 ……知ってたって? うるせっ。これでも中学まではまともだったのに。まともだったのに。


 霜平から貰った赤本は、俺の目には黒魔術の書か異言語の童話にしか見えなかった。


 ただ問題を見て、解いてみる。そして答え合わせをする。

 俺にはその程度の短絡的勉強法しか持ち合わせていない。悲しいことにね。


 つまりは、現代文等の、文字を見るだけで意味を成す学問に関しては大丈夫と言えるレベルなのだが、数学、物理、化学といった論理的ではない (?)学問に関しては己の力では太刀打ちができなかった。


 本当、理系の人凄いと思う。誰か教えてくれ。

 どうして円周率は割り切れないの? そんな切ない思いを抱いているの?

 どうして運動量を保存する法則があるの? その日の運動疲れは風呂で癒しちゃ駄目なの?


 屁理屈をこねくり回す月曜の放課後、図書室で俺がシャープペンシルをこめかみに押し当てていると、スマホが振動した。

 俺が事前に設定したアラームが起動したのだ。もうそんな時間である。


 というわけで俺は学校を出て、とある場所に向かうことにした。


 ピノコこと琴美が働いているあのメイド喫茶『パステルズ・ヘブン』である。


 別にメイド喫茶が癖になったわけじゃないぞ。本当だぞ。


 ◆ ◆ ◆


 いやー……最初はちょっとどうかとも思ったけど、やっぱりパステルカラーのメイド服ってのも一周回っていいものだね。

 地味にメイドさんのレベルも高い気がするし雰囲気もなかなか……癖になりそう。(なってんじゃねえか)


 という冗談は置いておき、俺が何故再びここ『パステルズ・ヘブン』に来ているのかというと、それはもちろんピノコに会うためだった。


 昨日、琴美の母親と一戦交えてから連絡などは取ってはいない。

 唐突に、身構える時間を与えないほうがいいと思ったからだ。


 事前に下僕である陽太から、琴美のメイド喫茶の出勤日時は聞いていた。


「おかえりなさいませ、ご主人様~」


 十七時ピッタリにパステルグリーンのメイド服姿の琴美が奥から現れた。

 普段と違う甘ったるくだらりとした声を聞くのも久しぶりだった。


 琴美はすぐに俺を見つけると、俺の元にやってきた。

 一瞬、苦そうな顔をしたのを俺は見逃さなかった。段々と俺の目も使えるモノになってきている気がする。


「あー、ふーくんだ~。また来てくれたんだね、ピノコ嬉しい~」


 普段の琴美のサバつく態度と喋り方を知っているので、違和感なく甘ったるい演技をしている琴美に改めて感心した。

 彩乃がコイツのことを『化け物』呼ばわりするのも納得の演技力。


 まあ、俺は普段の琴美のほうが好きだけどな。


「ねえねえ、何か飲む~? ほらほら、頼んでよぉ」


 ピノコこと琴美は『めにゅ~』とひらがなで書かれたラミネート紙を渡してきた。

 取り急ぎ俺は一番安価の『あいちゅこーひー』を頼んだ。ってまたコレ頼んでるし。


「かしこまりました、ちょっと待っててねぇ」


 作ったような笑顔でそう言った琴美は、キッチンがあるカーテンの向こうに消えて行った。


 さて。


 昨日、実際に琴美の母親と対峙して分かったことは、ストレートな方法ではどうしようもないということだ。

 何の力もない男子高校生一人の力では、大人を、ましてや大人の根深い恋愛事情に関することなど動かせるはずがない。


 ただそれは、というだけだ。


 楽な方法が取れないと分かった今、俺がやるべきことは一つ。

 それは、『本心を知る』ことである。


 琴美はこう言った――私の夢は、お母様が幸せになることだ。


 琴美の母親、恵美子はこう言った――我が子が稼いだものは、私がどう使おうが誰かにとやかく言われる筋合いはない。


 そうなのである。

 そのどちらも本心ではない。そのはずだ。


 だからこそ、事情を知った霜平はあそこまで憤慨し、琴美は諦めたような目をし、琴美の母は悔しそうに拳を握りしめていたはずなのだ。


「おまたせ、『あいちゅこーひー』です」


 陶器じみた笑顔でグラスを一つ俺の目の前に置いた琴美。

 俺はしばらく滴る結露を眺めてから、それを一気に飲み干した。


「なあ、ピノコ……いや、琴美」

「…………なーに、ふーくん」


 俺は一応他の客やメイドさんに聞こえないように小声で話を切り出した。

 本名を呼ぶ俺の不躾な呼びかけにも、作られたような笑顔を崩さない琴美。


「お前の母親、あれはもう手遅れだよ」


 ビリリと胸が痛む。本心ではないとはいえ、心がザラつく言葉だ。


「…………」

「明らかにアレは駄目だ。もう、お金を渡すのをやめたほうがいい」


 霜平は電話で俺に見透かしたようなヒントをくれた。

 ――本心を知りたかったら、狙うべきタイミングは三種類。


 その一つめ――――


「どう考えても琴美のことを考えてないぞ、あれは。酷い母親だ」

「ふーくん!!」


 ――――相手が強めに憤慨している時。


「なんだよ」

「お母様はそんな人じゃない! 何も知らないくせに知ったようなことを言うな!」


 店内に琴美の怒号が響き、他の客やメイドさんが一気に注目した。

 そしてメイドさんの一人、『えり』さんが慌てて駆け寄ってくる。


「ど、どうしたの? ピノコちゃん、何かされた?」

「……いえ」


 俺を睨んだまま、荒目に深呼吸をした琴美。

 流石の演技派も、『夢』を貶されればひとたまりもないようだ。


 ここで追撃。


「でも俺はどうみても、そうとしか思えないんだよ。きっと琴美はあの人との距離が近すぎて酷さが見えてないだけだ。目を覚ませよ、琴美」

「うるさい! ふーくんに何が分かるんだ! お母様はな!」

「ちょちょちょちょっと! 二人とも落ち着いてってば! 本当どうしたの!?」


 慌てふためきながらも、しっかりと場を静めようとする『えり』さん。

 ……いや、本当すいませんね。営業妨害とかをしたいんじゃないんです。


 でも攻撃の手を止める訳にはいかない。もう少しなのだ。


「お前は本当に母親の幸せが夢なのか? あんな母親の為に?」

「き、貴様ァ!!」

「ストォオオオオップ!!」


 俺と琴美の口論は『えり』さんによって強制的に止められ、俺と琴美は『えり』さんに連れられて裏の従業員の休憩所に連行された。

 そりゃそうよね、このままじゃ完全に営業どころじゃないもんね。


「一旦場を静めてくるから! それまでこれ以上言い争わないでよ!? ちょっとここで待ってなさい!」


 そう言って『えり』さんは一旦表に戻っていった。


 大変申し訳ないことをしている自覚はある。もうこの店には来れそうもないな。

 あーあ、折角ちょっと気に入ってきてたのに、メイド喫茶。


 休憩所に取り残された俺と琴美は、無言のまま背もたれの無い丸椅子に座っている。

 依然として琴美は蛇のような怖い目を俺に向けている。さながら俺は蛙だな。げろげーろ。


 さて、ごめんなさいね『えり』さん。最後の追い打ちといこうか。


「俺にはあの母親が悪いようにしか思えないぞ、琴美」

「貴様! まだ言うか! お母様はそんな人じゃない!」

「……じゃあどんな人なんだよ。俺に分かるように言ってみろよ」

「お母様なぁ! お母様は、お母様は……」


 相手が本心を口にしやすいタイミング、その二――逃げ場がない時。

 その為に俺は敢えて、このメイド喫茶に突撃したのだ。

 裏の休憩所にぶち込まれたのは予想外でラッキーだったけども。


「お母様は、昔は本当に優しかったんだ」


 座ったままの琴美は途端に小さく前屈みになり、初めて見る悲しい顔をした。

 パステルグリーンのメイド服の胸元に隙間ができ、何ともセクシーになっている。


「昔は?」

「ああ。まだ、お父様と一緒に居た頃だ。その頃のお母様はいつも笑っていて、幸せそうだった」

「……離婚したんだっけか」

「そう。そこからお母様はおかしくなってしまった」


 琴美は頭に付けたリボンを取り、それを見つめながら言葉を継ぐ。


「一切笑わなくなった。何をしてても楽しくなさそうで、すぐに叫ぶように怒るようになった。最初は私が悪いと思って、できる限り何でもできるようになった。言われる前に望むことをして、どんな場合でも対処できるように考え尽くした」


 琴美。それは普通、親に対して子どもがするような事ではない。


「常にお母様の顔色を窺って、都合のいい娘を演じる。客観的に見れば私はそういう人間なのかもしれないな」

「それだけ聞くと、やっぱり――」

「ああ。そう思うのも無理はないな。ふーくんも今のお母様しか見ていないだろうし。でも、違うんだ」


 琴美はリボンをギュッと握り締める。

 こちらに向けた顔は、やはりどこか遠い目をしていた。


「きっと、お母様は幸せが足りていない。私には離婚の辛さは分からない。結婚の良さも分からない。しかしそれがお母様にとってはどちらも酷く重要な存在だったんだと思う。ガラッと性格が変わってしまうくらいには」

「人間はそう簡単に性格が変わるものなのかな」

「ふーくんは信じられないかもしれないな。でも私は分かる。ずっと近くで見てきたのだから。だからこそ、お母様には結婚相手が必要なのだと思ったのだ。その為なら、私は何でもする」


 前置きはいい。お前の本心を聞かせてくれ。


「琴美、改めて訊くぞ。お前の夢を教えてくれ」

「……ふーくんには私の想いが筒抜けなのだな」


 薄く笑いながら、リボンをつけ直す琴美。

 どうやら、霜平のアドバイス――本心を訊き出すタイミングその三は、狙い撃つ必要はなかったようだ。


 何故なら既に、最初からずっと、現在進行形でであるからだ。


「私の夢は、もう一度お母様と笑い合いたい。幼い頃には当たり前のようにそこに在って、今となってはどこにあるか分からない暖かいお母様との暮らしを……そして一緒に幸せを感じたい。それが私の夢……いや、願いだ」


 全くもう、どうして人間ってのは本心をひた隠しにするんだろうね。

 別の何かに置換してみたり、真逆の行為をしてみたり、強引な口実を作ったり。


 本当は口にしてしまえば実に単純で明快で、簡潔に済むことが多いというのに。


 つくづく人間は不器用で婉曲で面倒臭い。

 ……お前もそうだろ! と言われてしまえば、ぐうの音も出ないんだけどね。


 ともあれまあこれで霜平が俺に頼んできた、『ピノコちゃんを助けてあげて』の意味の輪郭は見えた。


「なあ、琴美」

「なんだ、ふーくん」


 あとは琴美の母親、火野恵美子の本心を訊き出すだけだ。

 俺の予想が間違っていなければ、きっと引き出した本心を結びつけることくらいはできるはずだ。


「ちょっとした頼みがある。信じて、言う通りにしてくれないか?」

「……いいが、報酬を求めるぞ?」


 ちぇ、お前の為にやることだってのに。

 というかそもそも顧問の頼みで俺の意志でもないんだけどな。


 でもまあ、それでいい。


「わかった。因みにどんな報酬だ?」

「ああ。私と結婚してくれ」

「いやなんでそうなるんだよ!!」


 言うと思った!

 俺の素早いツッコミに、琴美はニヤっと笑った。

 その笑顔は柔らかく、ごく自然なものだった。


「冗談だ。……そうだな、もう一度、ふーくんのカレーが食べたい」


 恋愛マスターってマジで何なんだろう。

 俺はふと思う。きっとそれはが名付けた、何よりも都合が良く俺を縛り付ける何かなのだろう。


 聞き間違えたを心から恨むね。


「お安い御用だ」

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