助手「リンドウ ルナ」

 翌日の土曜日。

 本日は部活動に所属していないの俺にとっては休日である。


 そう、俺は失念していた。

 凛堂が教えてくれた『霜平』という名の教師に、もしかすると謎の部活動に入部させられている可能性があるということを。


 しかしながら今のところ数日間、特にこれといって活動の強制等は無かった。

 あの場の霜平先生のジョークだった、ということだろうか。何とタチの悪い……。


 残念ながら、それが冗談にしろ何にしろ、俺はこれからも放課後にあの少々埃っぽい音楽準備室に行かなくてはならない。

 部活動とは関係なく、凛堂に「これからも恋愛マスターとしてよろしく」とお願いされてしまったからだ。


 放心気味だったとはいえ、二つ返事で了承するなよ、俺。

 ……でもあのタイミングであの表情とあの綺麗な目はズルいよな。


 午前十一時、遅めのブランチをリビングで摂取して食後の珈琲を淹れながら、俺は昨日の凛堂の目を開けた綺麗な顔を思い出す。

 まさかあんなにも綺麗な女子だったとは。なんでいつも閉眼しているのだろう。碧眼を隠しているのだろうか。


 淹れたての珈琲を猫舌な俺がチビチビと啜っていると来訪を知らせるインターホンが鳴った。


ひょうちゃん、出てー」


 バスルームから姉のだらしない声が鳴る。なんで昼から風呂入ってるんだよ……。


 仕方なしにまだほとんど減っていない珈琲のマグカップをテーブルに置いて、玄関に行き鍵を開けて扉を開ける。

 そこにいたのは黒い猫の人や青いストライプの人ではなく、おさげ髪で眼を閉じたままの背の小さな女の子だった。


 というか、凛堂だった。


 ◆ ◆ ◆


「え」


 俺はその一文字しか口にできなかった。

 なんで俺の家に来てるの? てかなんで家の場所知ってるの? いろいろと怖い。


 十秒ほどの時が止まったかのような沈黙の後、


「マスター、話がある」


 格好が制服の凛堂は、無感情な口調で微動だにせずにそう言った。


 とは昨日言ってたけど、それは勘違いからのドジだったよな? 顔赤らめてたし。

 そんなに愚直に自分の言葉に責任を取ろうとしなくても。


「……あがる?」


 玄関先で話すのもアレだなと思って何気なく言ったが、今家には姉がいるんだよな……。

 ちなみに両親は昨日からちょうど海外旅行に行っている。銀婚式旅行だのなんだの、まあ仲がいいこと。


 俺の問いに凛堂は無言で頷き、控えめな歩き方で玄関に侵入してきた。

 見られてまずいって事はないけど、可能なら姉がゆっくりと入浴してくれると助かるな。


 まさかこの助手を自室に入れる勇気が俺にある訳もなく、とりあえずリビング中央に鎮座するテーブルを挟むソファに案内した。

 ガラス製の背の低いテーブルをL字に囲むソファに俺が座ると、凛堂も倣ってそこに座った。のだが。

 わざわざ俺の隣に座らなくても……折角L字のソファなのにさ。


「んで話って?」


 この距離感と位置関係、まるで音楽準備室のそれだ。

 肩がぶつかりそうで、顔を向けねば表情が見えない。


「マスターを陥れる敵が現れた」


 えっ、と反射的に発して俺は顔を右の凛堂に向けた。

 相変わらず無表情のまま開いているのか開いていないのか分からない目をこちらに向けている。


「敵って?」

「敵。マスターを『恋愛マスター』の座から引きずり降ろそうとしている人間」


 その言葉に俺の内心は湯気に踊る鰹節の如くゆらゆら動き始めた。


「敵って……どういうこと? 俺が恋愛マスターとして存在しているのが気にくわない奴が現れたって事?」

「多分、そう」


 いいぞ。


「どこのどいつ? 同じ学校の生徒?」

「そう。名前はまだ分かってない。けれど、すぐにマスターの為、突き止めてみせる」


 いい、いいぞ……。


「そいつは、俺の恋愛マスターという肩書を消そうと動いてるって事?」

「そう。遠からず、必ずマスターの邪魔をしてくるはず」


 や……。


 やったぁああああ!!

 それはやったぞ! 是非! 是非に!


 恋愛経験ゼロの俺が意図せず獲得してしまった恋愛マスターの称号を、遂に捨て去ることのできる可能性を得たのだ。

 こちら側からお願いしたい所存だ、是非とも俺からこの忌々しくも悲しい称号を奪ってくれ、その敵とやらよ。


 と、俺は顔に出さずに歓喜の舞を内心で決めたが、同時に脳裏にある映像が浮かぶ。


 凛堂の切れ長な青い瞳。

 同時に聴神経に残る凛堂の言葉――私のいうこと、信じて。


「それは…………気をつけないといけないな」


 真に迫る昨日の凛堂の様を思い出して、コイツの前では表立って喜ぶわけにはいかないのを思い出した。

 理由は分からずにしろ、凛堂はどうやら本気で俺の助手をしたいみたいだし……それに。


 ――あなたは恋愛マスター。わたしはマスターの助手。マスターの為なら何でもする。だから、これからもよろしく、マスター。


 この言葉に俺は首を縦に振ってしまったしな。

 とりあえずは凛堂には協力姿勢を見せておかなければ。


 ……でも、その敵が優秀であってくれと内心で切に願うくらいなら別に良いよな?


「情報収集は急務。必ずマスターに報告する。マスターもそれまで周りに気を付けて」

「気を付けるって言ったって」

「今日はその事だけ。マスター、また月曜日」


 凛堂はそれだけ言うと軍隊のようにシュバッと立ち上がり、滑るようにリビングを後にしようとした。

 その後ろ姿に、俺は気づけば声を掛けていた。


「あの、凛堂!」


 一時停止ボタンでも搭載しているかのように、俺の声と同時に凛堂は動くのを止める。

 俺はどうして呼び止めた?


「あの、さ……」


 敵についての情報をつぶさに知りたかったから?

 冷蔵庫にある食べきれそうにない昨日の残りを食べて欲しいから?


 それとも、まだ帰ってほしくなかったから?


「り、凛堂って一年だろ?」


 もったいない、という日本語にしかない単語が一瞬浮かんでは、それもまがい物だと感覚で分かった。

 今、そのまま帰すのはもったいない?

 普段ほとんど口を開かない凛堂との会話のチャンスをこのまま無下むげにするのはもったいない?

 それじゃ、? それにこの焦燥感はなんだ?


 凛堂はくるっと振り返ってごく僅かに首を傾げた。


「そう」

「俺は三年なわけよ?」

「そう」

「わかる? 二つも年上なわけ。それなのに、なんで敬語を使わないの?」


 なんだその残念な問いは、俺。こんなことでしか繋ぎとめられないことこそが、俺が灰色たる青春を送る所以だよね。自分の事は自分が一番わかるぜ。


「マスターがお望みなら、敬語でもいい」

「そ、そうか」


 本当は別にそんなことはどうでもいいのだが。


「それでは月曜の放課後、いつもの場所でお待ちしております。遅れる事のないようよろしくお願い致します」


 凛堂の敬語はグサッと深く俺の心に突き刺さった。

 ぐばっと口から血が出そうな気がした。


 ……今なら、「敬語は無し! タメ語でお願い!」と言ってきた中学の頃の保健室の先生の気持ちが分かる。


 敬語は、使う人によっては非情で冷酷な印象を与える。

 凛堂はまさにその典型だった。


「ま、待って……」

「何でしょうか、マスター」

「やっぱり、今まで通りでいい」


 言葉にも力がある――。

 凛堂の酷く冷徹な敬語を体験して、今ほんの少しだけそれを信じられた気がする。


「……そう」


 ポツリといつもの返事をした凛堂が口角が上げたように見えたのと同時に、凛堂の後ろからバスタオル一枚のワカメ頭が現れた。


ひょうちゃん、この子誰?」


 お風呂上がりの姉だった。

 私欲と焦燥感で呼び止めたのは失策だったようだ。


 ◆ ◆ ◆


ひょうちゃんの彼女?」


 全裸にバスタオル一枚という、良く言えば大胆な格好で姉は冷蔵庫から牛乳を取り出しながら声を出した。

 そうだったら良かったな、とちょっと思ってしまった俺がいる……。


「ちげーよ!」

「アンタに聞いてないの!」


 バスタオル星人は俺に鋭い視線と声を向けてから紙パックのまま牛乳を飲み、ソファにボフンと座った。

 せめて服着てこいよ……。


「あなた、お名前は?」


 牛乳の開け口部分を口に付けたまま姉は凛堂に目を向ける。

 俺と違って真ん丸でクリッとした眼だ。父親似の目である。


「凛堂」

「氷ちゃんとどんな関係?」

「マスター」

「マスター?」


 おいおい、こういうの良くないよ?


「そう。マスター、あるじ。私はマスターのしもべ


 おいいいいいいいい?

 しもべちゃう! あなた助手でしょ!? どうして自然と違う事言うの?


「……ひょうちゃん、アンタそういう趣味?」

「ちげーよ!!」


 これは全面的にちげーよ!


「私は、マスターの言うことならなんでもきく」

「凛堂も、追い打ち止めて!? 違う違う、この子は同じ学校の子で……」

「子で?」


 大きい目を向ける姉に、俺は言葉を継げなかった。

 俺にとって、凛堂は何なんだ?


 友達、ではない。助手、と言ったらこれまた変な誤解を生みそうだし……。

 同じ部活、なのかもよく分からないし……俺の勝手な入部は果たして成立しているのか?


 一般的にはどういう関係なのだろうと考えだすと、突然脳内のブレーカーが落ちる。

 見透かすような三白眼を向ける姉に、俺はとうとう口を噤んでしまった。


 チラリと凛堂を見ると、無言無表情無開眼で俺を見つめていた。

 しかし何か言いたげなオーラを放っている気がした。気のせいかもしれないけど。


「はぁ~」


 俺のはっきりしない態度に姉はあからさまな溜息と共に分かりやすいしかめ面を作って俺を睨み、


「もう、そういう関係なら最初に言いなさいよ。こんなとこにいないでアンタらさっさと外でデートでもしてきなさい!」

「だからちげーって!」

「ね? 凛堂ちゃんもこんなところより、ひょうちゃんと外でデートしたいでしょ?」

「……」


 そねみボイスの姉の言葉を受けて、凛堂は暫しの沈黙の後に俺の方を向き、「マスター、このお方は?」と控えめに訊いてきた。


「姉」


 俺がぶっきらぼうに答えると、凛堂は身体をピクリとさせてからすかさずバスタオル星人の前に移動し、


「マスターの姉……ならば私のマスターと同義。何でもする、何でも言って」


 アホな事を言っていた。

 引き止めた俺が悪かった、もう帰ってくれ凛堂。


「だから、こんなとこにいないでさっさとデートしに行きなっての」

「わかった」


 ん?


「マスター、支度を」

「なんの?」

「デート」


 はい?

 

 俺は茫然自失めに、真っ直ぐ俺を見つめる――目は開いてないけど――凛堂と、俺と凛堂に向けて「あっちいけ」と手の甲を振る姉を交互に見ることしかできなかった。


 ……デートって何?


「早くいってきな! はー、やだやだ、これだから若い子は」


 姉はそう言うと、親の仇のように牛乳を飲み下す。

 色恋が妬ましいのは流石姉弟って感じか?

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