エ・ス

ふさふさしっぽ

エ・ス

 かちゃりとドアを開けて、多美子さんは中を窺うように、部屋へ入ってきた。ノックは不要よ、と私が手紙に書いておいたからだ。忠実に守っている。


「お姉さま」


 多美子さんは私の姿を認めると、そう言って、大きな目を輝かせて、恥ずかしそうに微笑む。本当に、ダーリヤ(ダリア)みたいに華麗な気品あるお姫様。長い三つ編みが、橙色のリボンで結ばれて揺れている。


「静かに。そっとドアをお閉めになって。鍵をかけて頂戴」


 多美子さんはこくんと頷くと、静かに部屋へと入り、火鉢の隣に正座した。私とは、小さなテーブルを挟む形だ。六畳の殺風景な洋間に、女二人が向き合う。


「吃驚したでしょう、突然呼び出したりして」


 私は緊張している多美子さんに微笑んだ。多美子さんはすでに制服から部屋着の着物に着替えている。私は洋装のままだ。


「お手紙の通り、おいしいチョコレイトを二人でこっそり食べようと思って。この前デパートで買ったの。外国製よ」


「まあ素敵!」


 私がテーブルの上にチョコレイトの入った箱を開けてみせると、多美子さんは身を乗り出して喜んだ。はしゃぐ多美子さんに私は静かに、と合図する。


「みんなが起きちゃったら大変よ。真夜中なんだから」


 深夜一時。高等女学校の寄宿舎は、静まりかえっていた。


「御免なさい、お姉さま。靴箱に、お姉さまのお部屋にお誘いいただくSレターが入っていたなんて、夢のようで。舞い上がってしまったの」


 そう。私と多美子さんは女同士だけれど、友人以上の関係だ。私が「お姉さま」、多美子さんが可愛い「妹」。


「わたし、お姉さまから頂いた今までのお手紙、大事に大事に取っておいているのよ」


「私もよ。多美子さん。貴方から頂いたお手紙はひとつひとつが私の宝物。貴方だってそうでしょう? さあ、チョコレイトを召し上がって。飲み物はお茶しかないけれど」


 私は箱の中のチョコレイトを一つ摘まむと、多美子さんの唇に近づけた。多美子さんは紅一つ引いていない、けれどもみずみずしい唇をそっと開けて、私の指ごとチョコレイトをぱくっと飲み込んだ。


「多美子さんったら。指が外れないわ」


「ふふっ。おいしい。お姉さま」


「多美子さん、外国では、愛する人にチョコレイトを送る習慣があるのをご存じ? チョコレイトを送って、愛の告白をするの」


「まあ、知りませんでしたわ。お姉さまは博識ですのね。では、このチョコレイトも、お姉さまの愛の証なのかしら」


「そうよ、どんどん召し上がって。食べさせてあげる」


 大正に入って、戦争があって、日本は好景気になった。


 国がどんなに活気づこうとも「女の生き方」について常々疑問を持っていた私にとって、生きづらい日常は変わらなかった。


 何より、私は、男性というものに対して、他の女のように心をときめかすことがなかった。


「お姉さま、わたし、少し頭がぼんやりしてるわ」


 そんな中。この高等女学校で私は多美子さん、貴方と出会った。


「お姉さま、なんだか、体が熱い……」


 貴方は他のお嬢さんとは違う。こんな風な私のことを理解してくれる、運命の相手だと思ったの。


 それなのに。


「多美子さん、貴方、卒業前に女学校をよすって、聞いたのだけれど、本当なの?」


 多美子さんは答えなかった。部屋には時計の秒針と、火鉢の炭の爆ぜる音がするだけ。


 多美子さんはテーブルに突っ伏して、眠っていた。


 アルコールに弱いのね、と私は洋酒入りのチョコレイトを一瞥する。箱の中にはまだ七割がた残っている。


 私は火鉢に乗せてある鉄瓶を見た。湯が丁度沸いたところだった。


 チョコレイトで駄目なら睡眠薬を使うつもりだったけれど、必要なかったみたい。


 私はそっと立ち上がって、徐に多美子さんの背後にまわる。それと同時に、私の心に渦巻く暗い炎も、鋭利な刃物のようなはっきりとした形をつくる。「許さない」


 多美子さんの縁談がまとまり、来月中途退学して、親元に帰る。知ったのは先週のこと。最近多美子さんがよそよそしく、私を避けているようだったのは、自分の結婚が決まったからだったのだ。


 私には一言の相談もなかった。


 なにが「愛の証?」最後までしらばっくれるつもりなのね、多美子さん。しらんぷりして、私の前から去ろうと言うのね。私が心を込めて送った手紙も、貴方にとっては女学生時代の一つの思い出になってしまうんだわ。


 嫌よ。


 そんなの嫌。


 貴方にいなくなって欲しくない。貴方にとって、これがひとときの、恋愛ごっこだったとしても。


 私は背後から覆いかぶさるようにして、多美子さんの細い首に、そっと手をかける。「貴方を、どこにも行かせやしない」


「貴方は私のもの……」


 この世界から、すべての音と色が消えた。今、この世界に、私と、貴方だけ。


 指先に、力を込める。










 寄宿舎の朝は、生徒たちの掃除で始まる。


 何十回、何百回と繰り返されてきた、毎日の決まった風景。心がいくらがらんどうでも、私の体は勝手に朝の支度をしている。


 女学生のたちの、小鳥のさえずりのような声の中、私は迷子の亡霊のように廊下を歩く。そうやって、一日一日を過ごしてきた。気が付くと、授業が終わり、夕方になっている。誰もいなくなった教室の中、


「お姉さま」


 振り返ると、長い三つ編みを垂らした、多美子さんが立っていた。


「いろいろと、お世話になりました。今日で学校に来るのは最後ですので、お別れのご挨拶に」


「ああ、そうだったわね。お国でも、しっかりね。よいお嫁さんになるのよ」


「……、お姉さまのことは、忘れません」


「もうその呼び方は卒業よ。貴方はこれから、貴方の主人に、尽くすのだから」


「はい。。でもいやだ、モダン・ガールな先生が、主人に尽くす、なんて。男と女は五分ではなかったのですか」


 多美子さんは小首を傾げて、悪戯っぽく舌を出す。


「モチよ。いくら主人と言ったって、我慢できなかったら引っぱたいてしまいなさい」


 私と多美子さんは笑い合う。何でもない、普通の女教師と生徒として。


 あの時、私は結局、多美子さんを殺せなかった。





 指先に、力を込めたその時。


 多美子さんのうなじに、赤い点が散って、はっとした。嫌だ、鼻血?


 顔を上げてぎくりとした。鬼がいる。


 立てかけてある姿見に、鬼が映っていた。


 これは、私?


 顔面は上気し、眉は吊り上がり、目は血走っている。鬼気迫る顔。


 それなのに、なぜか今にも泣きだしそうに歪んでいる。なんて、醜いおんなの顔。


 血は鼻からではなく、口の端から流れていた。知らぬ間に唇をかみ切っていたのだ。


 多美子さんは、髪を短く切り、洋装をして、男子に負けず堂々としている私を好きだと言ってくれていた。職業婦人の私を素敵だと、手本だと。


 そう、私は教師。生徒の幸せを願うのが、本当ではないの? それを、こんな、女々しい。


 私は、眠っている多美子さんを起こし、教員用の自室から、多美子さんを自分の部屋へ返した。何事もなかったかのように。箱の中のチョコレイトが、ひどく味気なく、石ころみたいに見えた。


 私は毅然と多美子さん……、一人の生徒を見送る。もう二度と会うことのない愛した人を。長い三つ編みが揺れている。ダーリヤのような貴方。


 さようなら。










 前略 千代先生



 女子寮の自室でこれを書いています。


 先生のお部屋でチョコレイトを頂いてから、ひと月、わたしは考えに考えて、このお手紙を書くことにしました。


 告白しますと、あれは、実は、狸寝入りでした。


 先生のお部屋に呼ばれたとき、ああ、先生は、何か、物凄い覚悟をしていらっしゃると感じて、わたしは、もしかして先生のお怒りを買ったのではと考えて、先生がわたしを許さないのならそれでもいいと思って、わたしは眠ったふりをしたのです。だって、先生、目がちっとも笑っていなかったから。


 わたしは臆病者でした。全てを先生に委ねたのです。臆病者ゆえ、結婚のことも言い出せなかったのです。


 しかし、先生はわたしを許して下さった。こんなわたしを。先生は、とても強い人です。だから、わたしも、先生に負けないように強くなろうと、決心したのです。


 実はこの縁談は、父親の事業が失敗して、家の都合で急遽決まったものなのです。おかしいですよね、女は道具じゃない、って先生は常日頃仰ってました。


 わたしは必ず両親を説得し、先生のもとへ帰って参ります。簡単なことではないと分かっています。もしかしたら、親に絶縁されるかもしれません。


 ですが、わたしは先生を、愛しています。


 決して、お遊びじゃありません。


 先生は、好景気に浮かれる我が国を快く思っていないようですね。このあとしっぺ返しが来ると仰っていましたね。


 どうでもいいではないですか。


 わたしとお姉さまだけは、何があっても、ずっと平和に、永遠に……。


 生意気なことを言ってご免なさい。



 早々 石川 多美子



 震える手で、先生の靴箱に手紙を入れています。

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