織田裕樹
裕樹と友里の選択
マンションに帰るタクシーの中で、俺と友里の間に会話は無い。俺もそうだが、友里も緊張しているのが、会話が無くても伝わってくる。これから帰って記憶障害の治療薬を飲む。浮気が判明した時点に戻り、時間が動き出すのだ。
今更ながら友里が浮気した理由が分かった。幸田さんの言った「プロポーズ」というワードで思い出したのだ。だがどうする? 思い出したところで、意味があるのだろうか?
タクシーがマンションに到着し、俺達は無言で部屋に向かう。玄関前に置いた宅配ボックスを覗くと治療薬が届いていた。
「薬、来てるよ」
俺は宅配便の小さな箱を持ち上げ友里に見せた。
「そう……これで私の記憶が戻るのね……」
友里は作り笑いを浮かべてそう言った。記憶を取り戻す事が、友里にとっても手放しで喜べないのだろう。俺だってそうだ。記憶を取り戻して、あの冷たい視線を投げつけてきた友里に戻ると思うと、正直怖い。だが、今のままで済まされないのも事実だ。どんな結末が待っていようと、記憶を取り戻して前に進むしかない。
部屋の中に入り、ダイニングテーブルに向かい合って座った。二人の間には、箱から取り出した薬が二粒置かれている。
あとは薬を飲んで、友里の記憶を取り戻すだけなのだが、彼女は飲もうとはせず、俺も催促しなかった。
無言で数分見つめ合った後、おもむろに、友里が薬に手を伸ばした。
「ちょっと待ってくれ」
俺の言葉に、友里の手が止まる。
「なに?」
「薬を飲む前に言っておきたい事があるんだ」
友里は伸ばした手を引っ込めた。
「友里が浮気した理由が分かったんだ……」
友里は何も言わずに次の言葉を待っている。俺は一度ゆっくりと息を吸い込み、同じくらいゆっくりと口を開いた。
「友里は津川浩司を好きになったから、浮気したんだよ」
「どうして……そう思ったの?」
「俺がプロポーズした時の事を覚えてるか?」
友里は黙って頷いた。
「俺達が初めて結ばれた時、君が初体験だったので俺は驚いたんだ……」
俺達が初めて結ばれたのは大学三回生の時。友里ほどの美人で聡明な女性が今まで処女だったとは夢にも思わず、俺は喜び、驚いて、嬉しいと気持ちを口にしたんだ。
「『私は好きになった人としか、こんな事はしない。裕君が、初めて好きになった人なのよ』私はあなたにそう答えた」
友里はあの時の事を正確に覚えていた。
「そう。俺はそれを聞いて、友里と一生一緒に居たいと思い、結婚してくれって頼んだんだよ」
俺も友里も懐かしい思い出を話しているのに、緊張した表情のままだ。
「『私も裕君が大好き。この先、結婚して一生を共にできるなら、本当に嬉しい。でも、人の心は分からない。私がもし他の人に体を許す時が来るのなら、それはその人を愛した時。そうならないように、しっかり愛し続けてくれる?』私はそうあなたに聞いたわ」
「そうだ。その通り、俺は約束した。だから、最初に約束を破ったのは俺なんだ。ここ一年くらい、俺は友里を愛し続けていたとは言えない。友里が浮気してた事にすら気付かなかったんだ……」
俺は「ごめん」と小さく呟いて、頭を下げた。
「思い出してくれてありがとう」
友里はニコリともせず、そう言った。
「裕君以外を好きになるなんて考えられなかった。浮気した自分の気持ちも分からないのに、安易に浮気した理由を教えたら、離婚しか選択肢が無くなりそうで怖かったの。だから裕君には理由を言うことが出来なかった」
友里の言葉を聞き、俺はハッと気付いた。
「もしかして、今は浮気した時の気持ちが分かるのか?」
友里は辛そうな表情で頷いた。
「私も今日、浮気した理由を確信したわ。今の私も津川君が好き……」
やはりそうだったのか。友里の告白を受けて、俺の胸がズキンと痛む。遅かったのか? もう……今の友里も戻れないところに行ってしまったのか?
「もう……手遅れなのか?」
俺が絞り出すような声で聞くと、友里は無言で首を振る。
「ちがうの。今の私はあなたが一番好き。津川君を好きになったのも、あなたに似ているから。彼にあなたの面影を追い求めていたからよ」
「俺と津川が似ている?」
「そう、彼の純情さ、一途さは私が好きになったあなたそっくりだった。だから好きになったの」
友里は俺の代わりに津川を愛したのか。俺が友里と向き合って暮らしていれば……。
「記憶を失う前の気持ちも、今なら分かるわ。さっき裕君が言った通り、私は津川君を愛していたんだと思う。でも、津川君は奥さん一筋の人だから、きっと好きな気持ちを隠して抱かれていたの。あなたも津川君も好きになり、その上二人とも騙し続けているのが辛くなったんだと思う。離婚して、全て投げ出して、逃げたくなったのよ」
友里は辛そうな表情を浮かべた。
「でも、今の私は違う。今日、この瞬間まで、私は離婚されても仕方ないと思ってた。どんな理由があっても、私は許されないことをしたから。
けど、あなたは気付いてくれた。やっぱり私はあなたのことを愛している。今は別れたくない。自分勝手だと分かっているけど、もしあなたが許してくれるなら、一緒に生きていきたい。私はあなたを好きな今の気持ちのまま、薬を飲まず、記憶を取り戻さずに一緒に生きて行きたいの……」
友里が不安そうに俺を見つめる。
記憶を取り戻さない。それは浮気の事実を葬り去るに等しい。俺は動く事が出来ずに考えた。
「ごめん。ムシの良い話よね。あなたの事を裏切ったのに、それを忘れたままでいたいなんて……」
友里は自嘲気味な笑顔で、薬に手を伸ばす。俺はその手より先に薬を奪い取った。
椅子から立ち上がり、俺は手の中の薬をゴミ箱に投げ入れた。
「友里、俺はお前を愛している。思い出さなくて良い、もう一度、俺と歩んで欲しい」
「裕君!」
友里が立ち上がり、俺に抱き着いてくる。
「ありがとう! 大好き! ありがとう!」
俺達は熱いキスを交わした。スーツ姿のままの友里を抱きかかえ、寝室のベッドに倒れ込む。その夜、全てを洗い流すかのように、俺達は愛し合った。
※あともう一話「エピローグ」があります。
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