幸田瑠美
三年間の記憶
私は泣きながら抱き合う、浩司君と愛佳ちゃんを呆然と見ていた。
浩司君の告白は正直ショックだった。私に何か言う資格はない。分かってはいるけれど、今までの全てを否定された気持ちだ。
「大丈夫か?」
不意に肩を叩かれた。振り返ると義人が立っている。浩司君に殴られて口から血を流している。
「私は……あなたこそ大丈夫なの? 口の端から血が出ているわ」
私はハンカチを取り出し、義人の血を拭う。
「浩司のパンチなんて大した事ねえよ。それよりアパートに帰ろう。記憶障害の治療薬が届いているんだ」
そう言われて、ふと気付くと、織田さんと女性の姿が無い。もう帰ったのだろうか。浩司君と愛佳ちゃんの目には私は入って居ない。もう二人に他人は必要ないみたいだ。
「分かった」
薬が来たのなら、もう決着を着けないと。織田さんに言った通り、それが離婚につながるとしても。
義人はここまで自転車で来ていた。欄干に立てかけていた自転車に乗り、義人が「乗れよ」と後ろを勧める。私は「二人乗りしたら、捕まるよ」と断ったが、捕まるのを恐れたと言うより、時間稼ぎがしたかった。
私達は自転車を挟んで、並んで歩いた。お互い何も話さず、無言で歩く。珍しく義人が緊張しているのが伝わってきた。
夜になっても気温が下がらない。蒸し暑い空気の中をたっぷりと時間を掛けて帰り着いた。
「ごめん、シャワー浴びて良い?」
ここを出る時に持ち切れなかった、私の着替えが残っている。一旦熱いシャワーを浴びて落ち着きたかった。
「ああ、良いけど、先に薬を飲んでくれよ。すぐに効果が表れるか分からないから」
確かに義人の言う通りだ。私は義人が持ってきた薬を飲み、着替えを用意して浴室に向かった。
熱いシャワーを浴び、べたつく汗を流すと生き返った気がする。体はサッパリしたが、やはりすぐには記憶は戻らず、気持ちは緊張したままだ。
シャワーを終えて、ダイニングに行くと、義人はテーブルに座り、私を持っていた。
「何か思い出したか?」
私は無言で首を振り、義人の向かいに座る。
「ビール飲む?」
義人は立ち上がり、冷蔵庫を開けて、缶ビールを手に取り私に見せる。
「ありがとう。でも薬の効果に影響あると困るから、お茶か何かあればちょうだい。義人もアルコールはやめてね。話をするんでしょ」
「そうか……そうだな」
義人は缶ビールを戻して、麦茶をグラスに二つ入れて出してくれた。
「ありがとう」
「何か思い出した?」
「ごめん、そんなに急かさないで。義人もシャワーを浴びてきたら?」
義人は「そうだな」と言って、シャワーを浴びに行った。
義人を待つ間、昔の事をいろいろ考えた。だが、肝心の三年間は何も思い出せない。
浩司君と愛佳ちゃんはこれから上手くやっていけるのだろうか? いや、私がそれを考えても仕方ない。二人の事は忘れて、私も前に進まなきゃ。
義人はシャワーから戻って来たが、何も言わずに、また私の前に座る。私達は視線を合わせる事無く無言で座っていた。
「お前、浩司の事が好きなんだろ?」
不意に義人が口を開いた。
「えっ……」
突然そう義人に聞かれて、私は言葉を失った。
「隠さなくて良いよ。俺には分かっているから」
「どうして……どうしてそれを?」
「あの時と同じ反応するんだな」
「あの時って……」
突然、頭の中に様々な記憶がなだれ込んで来た。義人の言葉が引き金になったのだろうか? 三年間の記憶が押し寄せてくる。
「あああ……」
「瑠美、大丈夫か?」
義人が慌てて傍に来てくれた。
浩司君にお見合いの話をした日の夜。私は悲しみに暮れ、酷く落ち込んでいた。
勇気を出して、浩司君に見合いの件を打ち明けたのは、止めて欲しかったからだ。でも、そんな事が起きる筈はない。だって浩司君は愛佳ちゃんが好きなのだから。勇気を出すなら好きだと告白まですべきだった。中途半端な行動じゃ意味が無い。
そうやって、悲劇のヒロイン気分に浸っていた私の家に、義人がやってきた。
「どうしたの? 急に来るなんて珍しいね」
幸いお父さんはまだ帰って来てなかったので、部屋に招き入れた。義人と話をする事で、落ち込んだ気分を紛らわせたかったのだ。
「浩司から聞いたんだ。お前、お見合いするんだって?」
「どうして浩司君が……」
「あいつ馬鹿だから、お前が俺の事を好きだと思っているんだよ。お前が奴に見合いの事を打ち明けたのも、俺に止めて貰うためだって考えたんだ。馬鹿だから」
「そんな……」
悲しかった。そんな風に誤解されていたなんて……。でも自業自得だ。
「お前、浩司の事が好きなんだろ?」
「えっ……」
突然そう義人に聞かれて、私は言葉を失った。
「隠さなくて良いよ。俺には分かっているから」
「どうして……どうしてそれを?」
「小学生の頃から思ってたけど、中学になってお前に振られた時に確信したよ。あいつ、気弱な面はあるが、真面目だし、ここ一番では勇気をだしたりするもんな。俺より良い奴だと俺も思うよ」
義人は辛そうに下を向いた。隠し通してきたと思っていたのに、義人にはバレていたんだ。
「俺はずっと浩司に劣等感を持っていたんだ。あいつに勝てるのは口だけ。調子良くて女の子にモテるだけなんだよ」
「それで私が振ってから、あんなに……」
「そうだよ。あれ以来お前の『ごめんね』がトラウマになったし、浩司が憎くて堪らなかった。愛佳と付き合いだしたのも浩司への当てつけだ。ただ、それだけじゃない。俺が愛佳と一緒に居れば、お前が浩司と付き合うと思ってたんだ」
「えっ? まさか……そんなの知らなかったよ……」
「なのにお前は浩司に告白すらしない。そればかりかお見合いまでするって? 何考えてんだよ」
「浩司君は、愛佳ちゃん一筋だから……」
「だったら、中学の時に俺と付き合えば良かったんだよ。人の気も知らないで。お前が浩司と一緒になるなら、俺は愛佳と結婚しても良いと思っていたんだ。愛佳も素直ないい娘だからな」
義人は辛くて悲しそうな顔をしている。その悲しみは私への想いからなのだろう。私はそんな義人の悲しみを考えた事なんて無かった。
「でも、あいつは馬鹿だ。お前の気持ちなんて分かろうともしない。もう浩司には期待しない。俺がお前を幸せにする。頼む、結婚してくれ」
義人は深々と頭を下げた。こんな真剣な義人は、長い付き合いでも見たことが無い。
「愛佳は振って来た。酷い事言ったけど、浩司が付いていたから大丈夫だろう。これからは真面目に働く、チャラ男もやめるから……頼む。こんなバカ相手に出来るのは瑠美しかいないんだよ」
お調子者でプライドが高い義人が、こんなにも素直に自分の気持ちを話すのを初めて聞いた。
私の心は揺れ動く。義人が嫌いな訳じゃない。むしろ、姉弟のような親しさも感じている。その義人がここまで気持ちをぶつけてきたのだ。冷静で居られる筈がない。
「ありがとう。義人の気持ちは嬉しいよ」
私は下げている義人の頭を優しく撫ぜた。
「私、義人が考えている程、良い女じゃないよ」
「そんな事ない。瑠美は瑠美のままで俺の傍に居て欲しいんだ」
義人が頭を上げて目を見つめる。
「分かったわ……お見合いはやめるから、私と付き合ってくれる?」
「ありがとう」
義人は私を強く抱き締めた。
同情で言ったのではない、ここまで好きと言われて心が動かない人は居ないだろう。その時の私は心から、義人と一緒に居たいと思っていた。
それからは幸せだった記憶しかない。
義人は真っ直ぐに私を愛してくれた。
デートの時はいつも笑わせて、楽しませてくれた。誕生日や記念日にはケーキやプレゼントを忘れない。仕事も本当に頑張っていた。こんな旦那様は、私にはもったいないくらいだ。
全てを思い出し、私の瞳からは自然と涙が零れていた。
「大丈夫か? 何か思い出したのか?」
「義人!」
私は不安そうに見つめる義人の首に腕を回して、彼を抱き締めた。
「ごめんね! あんなに愛してくれてたのに、忘れてしまって。好き! 大好き! あなたが大好きよ!」
「俺も瑠美が好きだ。昔からずっと大好きだ!」
私達は強く抱き締め合い、熱いキスを交わした。
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