織田友里
話し合い
私が記憶を失ってから、二回目の金曜日になった。繁忙期ではなく、この週末は土日とも普通に休める。記憶を失ってからの仕事はさすがに疲れた。津川君の丁寧なフォローが無ければ、とても乗り切れなかっただろう。本当に感謝している。
仕事は何とか続けていけそうだが、問題は裕君の方だ。記憶を失ってから彼は一度も家で食事を取らず、まともに話が出来ていない。先週の土日も仕事に出かけてしまったし、私を避けているのかも知れない。どうすべきか? こちらは無視し続ける訳にはいかない。記憶が無いとは言え、浮気して問題の原因を作ったのは私だ。こちらから強引にでも話し掛けるべきだろうか。
「どうしよう……」
「あ、何か分からない事がありましたか?」
私がパソコンの前で呟いた言葉を聞き、津川君が声を掛けてくれた。
「あっ、ごめんなさい。ちょっと考え事してたの」
「そうなんですか。分からない事があれば遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとう、本当に助かるわ。何かお礼しなきゃね」
「お、お礼なんて、とんでもないです。今まで友里さんにはずっとお世話になっていたんだから」
津川君は照れたのか、パソコンのモニターに視線を戻す。
その初々しい姿に、出会った頃の裕君を思い出す。出会った頃の裕君は、目を見て話すのさえ緊張するぐらい純情だった。いつも私の事を見ていてくれて、気遣ってくれていた。そんな彼をある事がきっかけで、私も好きになった。結婚してからも幸せな毎日で、それがずっと続いていくと信じていた……。
やっぱり話し合おう。今の私は裕君と一緒に暮らしていきたい。話し合って許してもらおう。
定時に仕事が終了して、私の気持ちはもう家へと向かっていた。今日は裕君からラインが入っていない。早く帰って来てくれるのだろう。帰る途中で食材を買って、彼の好きな物を沢山作ろう。楽しい雰囲気で話し合えば、きっと仲直り出来るよ。
午後八時。夕飯の支度を終えて、私は裕君の帰宅を待っている。少し前に、駅を出て家に向かっているとラインが入った。もうすぐ帰って来るだろう。
元ラグビー部でハードな運動をしていたからか、裕君はコッテリした脂っこい食べ物が好きだ。今日はてんぷらを用意している。目の前で一緒に揚げながら食べれば会話も弾むだろう。
玄関で扉の開く音がして「ただいま」と裕君が帰って来た。
「お帰りなさい」
私は出来る限りの笑顔を作り、出迎えた。
「今日の晩御飯はてんぷらだぞ」
「そうか、ありがとう。俺が好きな物を覚えていたんだ」
裕君が喜んでくれた。良い感じだ。
「そりゃあ、愛する旦那様だから」
そう言って、裕君の鞄を受け取る。会社の人間が見たら驚くぐらい、私は可愛いらしさを演出した。
裕君が寝室で着替えている間に、私はダイニングテーブルの上に置いた、卓上電気フライヤーで次々とてんぷらを揚げていく。
ジュワーと音を立てて、てんぷらに熱が通っていく。
「美味しそうだな」
裕君が部屋着に着替えてやって来た。笑顔が良い感じ。
「小エビのかき揚げや、レンコン、なすびや豚天もあるよ」
私は具材を入れたパットを持ち上げた。
「さあ、座って。ビールを入れるわ」
私は五〇〇の缶ビールを冷蔵庫から取り出し、ペアのタンブラーに注いだ。油の表面に浮き上がってきたてんぷらを菜箸で拾い上げ、油を切る。キッチンペーパーを敷いたお皿の上に盛り付けて、準備は出来た。
「じゃあ、乾杯しよう」
笑顔の私に、裕君も頷いた。
「お疲れ様ー! カンパーイ」
カチンとタンブラーを合わせ、私達はビールを喉に流し込む。
「美味しい」
裕君が満足そうに言う。
このまま時間が止まれば良いと願った。もしかしたら、裕君も感情を押し殺し、演技しているのかも知れない。でも、演技してくれる事自体が、私は嬉しかった。
次々とフライヤーでてんぷらを揚げていく。裕君も美味しそうに食べている。私達は仕事の事や世間話など楽し気に語り合った。
「土日は休めるの?」
「いや、どちらも出勤になってしまったよ。うちの会社でも記憶喪失になった社員が出てその穴埋めしているから、通常業務を土日にしなきゃいけなくなったんだ」
「そうなの……大変ね」
「そっちはどうだ? 記憶を失って仕事大丈夫だったか?」
そう聞く表情は、記憶にある優しい裕君の顔だ。
「ありがとう。仕事内容が大きく変わった訳じゃないから大丈夫」
「そうか、安心したよ」
浮気相手が会社に居るのに、それには触れる事無く、裕君はほっとしたように笑う。今の裕君を、私が裏切ったなんて信じられない。心から彼の事を好きだと思った。
夕飯も終わり、裕君が後片付けをすると言ってくれたのを遠慮し、彼にお風呂を勧めた。今は後片付けも終わり、裕君がお風呂から上がってくるのを、ダイニングの椅子に座り待っている。
まだ、浮気に関する話し合いは出来ていない。しなきゃいけないと分かっているのに、楽しい雰囲気を壊したくなくて、言葉に出来ない。おそらく裕君も同じ気持ちなんだろう。
「お風呂、お先に」
裕君がダイニングの入り口のドアを開けて入ってくる。まだ暑い季節でもないけど、Tシャツとボクサーパンツ姿でバスタオルを首に下げている。
「風邪をひくわよ」
私は無理に作った笑顔で迎える。
「大丈夫だよ」
笑顔でそう言って、彼は私の横に座った。
私達は無言で見つめ合う。食事の時と違う、緊張した空気が流れた。
何か言わなきゃと思うが言葉が出てこない。
「記憶は全く戻らないの?」
裕君の問いに、無言でうなずく。
「そうか……」
また沈黙。
「ごめんね……」
何に対してなのか、自分でも分からない謝罪の言葉を呟いた。私に分からないのだから、裕君もなんの謝罪か分からないだろう。
「記憶を失う前、なぜ友里が浮気したか、理由が分かるなら教えてくれないか?」
私の意味が分からない謝罪がきっかけになったのか、裕君は確信に触れる問い掛けをしてくる。ただ、簡単に答えられる質問では無かった。
「……私は怖いの」
少し考えて、私はそう答えた。
「怖い?」
「もし、それを裕君が知ったら、私達は別れる事になるかも知れないから」
「どうしてだ? 記憶を失う前は、理由を俺が分からないから、別れるって言ったんだぞ」
裕君の苦しんでいる顔を見るのが辛い。夕食の時のように、全てを忘れて暮らすことは出来ないのだろうか? でも、私にそれを言う資格はない。
「今の私は裕君と別れたくはない。理由はもう少し待って欲しいの……」
「そうか……」
私は席を立ち、無言のまま肩を落とす裕君に抱き着く。彼も何も言わずに立ち上がり、私達は抱きしめ合った。
私は顔を上げ、彼の顔を見る。自然と唇が重なった。彼の唇が私の下唇を優しく挟んで吸う。舌が唇の間を割って入り込んでくる。私もそれを受け入れ、舌と舌が絡み合う。
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