悲しい気持ち
午後八時。義人君が帰って来るまではまだ時間がある。スーパーで買ったお弁当で晩御飯も済ませたし、少し寝ておこうかと思った時、ピンポーンとインターフォンが鳴った。
「はい」
嫌な予感を感じながらもインターフォンに出る。
「愛佳? 僕、浩司。一緒に家に帰ろう」
もしかしたらと思っていたが、やはり浩司君だった。私は返事をせずにやり過ごそうと考えた。
「愛佳、居るんだろ? 一緒に帰ろう! そこに義人もいるのか? 頼むから開けてくれよ」
それでも私が無視していると、ピンポーン、ピンポーンとボタンを連打し始めた。
「うるさいわね!」
いい加減イラついて、私は玄関のドアを少し開け、顔だけ出して怒った。
「愛佳」
会社から直接来たのだろう、スーツ姿の浩司君が笑顔で私の名前を呼ぶ。
「愛佳じゃないわよ! 私は帰らないって言ってるでしょ!」
「でも、愛佳は僕の奥さんなんだよ。それにここは義人と瑠美の家なんだから、いつまでも居ちゃ迷惑になる。だから帰ろう」
浩司君はドアを押し広げ、泣きそうな顔で私の腕を掴む。
「そんな事私は覚えていません! それにもう瑠美ちゃんは出て行って居ないでしょ。だから、私はここで義人君と暮らします」
私は腕を振って、浩司君の手を振りほどいた。
「記憶は絶対に戻るから。だから僕達の家で待っていようよ」
記憶は戻らない。いや、失っていないのだから、戻りようがない。もし、何らかの記憶を元に戻す方法が見つかったとしても、私は記憶を失った振りを続けるつもりだった。
「あっ、愛佳、そのエプロン!」
私は買い物を済ませた後、部屋の掃除をしていたので、服の上にエプロンを着けていた。このエプロンは結婚してすぐに私が買ったものだ。
「もしかして、家事をやらされているの? 義人の奴め……」
浩司君は一人興奮して怒っている。
「やらされている訳じゃなくて、私が自分からやってんの。朝ご飯もちゃんと作ったんだよ」
「ええっ、焦がしたりしなかった? 火傷とかも大丈夫?」
いや、焦がしたりはしたけど、大丈夫よ。義人君はそんな事を一々心配したりしないから。
「もう良いでしょ。なに言われても私は帰らないから」
「か、帰らないと不倫になるんだぞ。不倫になると慰謝料請求するからな」
「どうぞ、慰謝料でもなんでもして頂戴よ。でもそれをしたら離婚になるよ」
「えっ……」
浩司君の顔色が変わる。
「あ……でも、僕の奥さんなのに他の男のところに泊まるのは罪になると思うよ……」
「残念でした。罪になったとしても、強制的に私を帰らせる事はできませんー。個人の自由は守られているの。浩司君に出来る事は慰謝料請求するだけだよー」
「慰謝料は何百万円にもなるんだよ」
「大丈夫、パパに払って貰うから」
「お、お義父さんは僕の味方をしてくれるよ」
「本当にそうかしら? 私が頼んで、パパが首を横に振った事なんか今までに一度も無いわ」
「そ……」
浩司君は言葉に詰まる。私の言う事が正しいと分かっているから。パパが浩司君を気に入っているのは本当だ。でも、私と言う末娘に向けるパパの甘々な愛情は、浩司君ごときじゃ超えられない。
「さあ、帰ってよ」
私は浩司君の体を外に押す。
「頼む、帰って来てくれ。なんでも言う事を聞くから、愛佳に苦労はさせないから、お願いします!」
とうとう浩司君は土下座までした。さすがに、私の心もズキッと痛んだ。
違うのよ浩司君。私の望みはそんな事じゃ無い。その優しさが欲しかった訳じゃないの。それを分かって貰えないから、私はあなたを愛せなかったのよ。
私は涙がこぼれそうなくらい、悲しい気持ちになった。
「愛佳……」
悲しそうな顔の浩司君と目が合う。
「お願いもう帰って。私は義人君の為におつまみを用意するの」
私はこれ以上、浩司君の惨めな姿を見ていたくはなかったので、奥に引っ込む。
ダイニングで様子をうかがっていると、しばらくして浩司君はドアを閉めて帰って行った。
我ながら酷い女だ。でも、これで諦めてくれるだろう。
私はほっとしたのと、疲れ果てたのとで、崩れ落ちるようにダイニングテーブルの椅子に座り、しばらくは動けなかった。
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