消えた愛佳
「次は、逆に浮気の事実をお前の奥さんに俺から伝える」
「ええっ! ちょ、すみません。そ、それだけは勘弁してください!」
「駄目だ。この浮気の所為で俺達夫婦は離婚の危機なんだ。自分のところだけは平和で済まそうなんて許さない」
これは昨日の夜に俺が決めた条件だった。俺達夫婦だけが険悪になって、津川夫婦は円満なんてどうしても許せないと思ったからだ。
「すみません。実はうちの妻も例の『スキンクリア』の被害で記憶を失ってしまったんです。結婚前の、まだ俺に恋愛感情も無い時に戻ってしまったんです。だから、今浮気の事を知ったらきっと出て行ってしまいます!」
「お前、俺の話を聞いて、今その話を作っただろう。そんな都合の良い事誰が信じるか」
「本当なんです! 信じてください!」
目に涙を浮かべて頼む津川は、嘘を吐いているようには見えなかった。
「分かったよ。それなら嘘かどうか、実際に会って確かめよう。もし、本当ならすぐには言わない。俺と友里の関係をどうするのか決めてから、話すかどうか判断する。それでどうだ?」
「妻には言わないんですね?」
「今はな。結果的に言わない場合もあるかも知れんが、今は約束出来ない。それが嫌なら、奥さんの状況に関係なく、今すぐに言うだけだ」
「わ、分かりました……」
津川は不本意そうだったが、了解した。
「じゃあ、今から行こうか」
「えっ? 今からですか?」
「今日以外は忙しくて予定が取れないんだ。今日が駄目だって言うんなら、もう奥さんに言うしかないな」
「わ、分かりましたよ。行きます。でも一つだけ約束してくれませんか? もし妻に浮気の事を言う時は俺の口から言わせて下さい。自分の口からちゃんと説明したいんです」
必死で開き直ったのか、津川はオドオドした様子も無く、そう言った。俺はその申し出をどうするかと考えた。
「その場には俺が立ち会ってもいいんだよな?」
「それは構いません」
「よし、決まりだ。じゃあ、行こうか」
電車で来ていた津川を乗せ、俺の車でハイツに向かった。津川のハイツまでは、車で三十分程の距離らしい。
友里の浮気が発覚して以来、良く眠れず、黙って運転していると眠くなる。
「何か話せよ。眠くなるだろ」
俺は黙ったままの、助手席の津川に声を掛けた。
「良い車ですね」
俺の車は国産車だが、メーカートップクラスの高級セダンだ。恐らく津川の給料では手が出ないだろう。
「そうだろ。死に物狂いで働いてこそ手に入れられる車だ。お前には買えないだろ?」
「そうですね……」
津川は何の感情も籠らない声でそう言った。
馬鹿な言い方をしたもんだ。
俺は自分で自分の言葉に嫌悪した。いくら言葉で津川を蔑んでも、友里がこいつと寝た事実に変わりは無く、自己満足に過ぎないのは分かっているのに。
その後は無駄話をする事なく津川の案内に従ってハイツに向かった。
喫茶店を出てから三十分弱、三階建て全十二部屋の津川夫婦が住むハイツに到着した。201号室が津川の部屋だった。
「ここなんだろ? 入ろうぜ」
部屋の前に到着したものの、中々部屋に入ろうとはしない津川を促した。俺に促された津川が、覚悟を決めたように呼び鈴を押す。
「あれ?」
中からは何の反応も無い。
「奥さんは居ないのか?」
「いや、居る筈なんですが……」
「ここに来る前に連絡はしていないのか?」
「ええ、何となく……」
そういえば、そんな素振りなかったなと思い出した。
俺を連れてくる事を言い出しにくくて、連絡しなかったのか。ったく、奥さんが居なきゃ無駄足になるじゃないか。
津川が鍵を取り出し、部屋の中に入る。俺も続いて失礼した。
「愛佳!」
津川が俺に構うことなく、奥に入って行く。その行動から、何か焦りのようなものを感じた。
「愛佳……」
俺も続いて奥に進むと、津川がリビングらしき部屋で一枚の紙を手に立ち尽くしている。
「どうした? 奥さんは居ないのか?」
「あいつ……」
津川は苦々しい顔をして、俺の問い掛けには答えない。
俺は何があったのか知りたくて、津川が手に持つ紙を横から覗き込んだ。紙には「義人君のところに行きます」とそれだけが短く書かれていた。他には何も書かれていないが、津川の妻が夫に宛てた書置きだろう。
「なんだ、これ?」
津川の妻はわざわざ書置きを残して他の男のところに行ったって事か?
俺が書置きの意味を考えていると、津川は無言のままフラフラとキッチンに向かって歩き出す。そこで何かゴソゴソやっていると思っていたら、包丁を手にして出て来た。
「お、おい! 何持ってるんだ!」
青ざめた津川の顔に狂気を感じて、俺は叫んだ。
「義人のところに行って、二人を殺して僕も死ぬ」
「ば、馬鹿! 早まるな。落ち着け、な、一旦その包丁を置け」
津川が冗談を言っているようには見えず、俺は少し離れた位置から落ち着かせようと宥めた。
「もう、どうでも良いんだ……愛佳は出て行ったんだ……もう戻ってこない」
津川が肩を落として泣き出したので、俺は近付き、手から包丁を奪って離れたところに置いた。
「まあ、座って。少し落ち着けよ」
俺は津川の肩を掴んでダイニングテーブルの椅子に座らせた。
正直、津川夫婦がどうなろうと知った事では無いが、大事になれば直前に会っていた俺にも影響が出るだろう。もしそうなれば、津川と浮気していた友里にも話が行くかも知れない。それは何とか阻止したかった。
「義人は愛佳の元カレなんだ……」
妻が元カレに会いに行ったとしても、お前も浮気して裏切っていたんだから責める立場じゃないだろう、と思ったが刺激するのが怖くて何も言わなかった。今、津川から目を離すと何をしでかすか分からない。冷静になるように説得したいが、経緯が分からないと何も言いようが無い。
「吐き出すと楽になるかも知れんぞ。嫁や元カレとの経緯を話してみろよ」
俺は大して興味もないが、仕方なくテーブルに向かい合って話を聞く事にした。
幼い頃からの話を聞いた俺は、あろう事か津川に同情してしまった。自分の妻と浮気した相手と言う事も忘れ、津川が純情一途な男に思えてしまったのだ。
「そんな女見捨てろよ。そんな元カレの所に行ったって、幸せになれないのは分かっているのに、自分から進んで行くんだから救いようがないぜ」
「分かっているんですが、でも……それでも僕は愛佳の事が好きなんです」
津川はうなだれて泣きそうな声を出している。
「お前なあ、そんな情けない事言ってるから嫁さんを他の男に……」
「取られるんだ」と言いかけて、俺は自分がその情けない男に妻を寝取られた事を思い出した。
「まあ、良いか……。とりあえず、お前の嫁に浮気の件を話すのは保留にしてやる。俺はもう帰るよ」
「そんな! お願いします! 愛佳を取り返す為に、一緒に義人のところまで付いて来てくださいよ」
椅子から立ち上がろうとした俺の腕に津川がしがみつく。
「ええっ、何の義理があって俺がそんな事しなきゃなんないんだよ」
「お願いしますよ。あいつ口が上手いんですよ。僕が何か言ったって、いつも言い負かされるんです」
津川は泣きそうな顔をして、俺の腕を放さない。
「そんなの俺に関係ないだろ!」
「分かりました……」
俺が怒鳴ると、津川は急に無表情になり、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。
「友里さんに電話して全てを話します」
「お、おい、やめろよ! そんな事したら容赦なく慰謝料取るぞ!」
俺は慌てて津川の手からスマホを奪おうとした。
「良いですよ。どうせこの後、愛佳と義人を殺して僕も死にますから。僕の保険金からいくらでも奪い取れば良いでしょ」
津川の目は座っていて、とても冗談には思えない。
「分かった! 分かったから、一緒に行ってやるから!」
なぜ、浮気された側が間男に脅されなきゃいけないのか、訳が分からないが、今の津川は本当に事件を起こしかねない。仕方なく、興奮状態の津川を乗せ、俺の車で義人と言う奴のアパートに向かう事になった。
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