津川浩司

津川浩司の苦悩

「ねえ、浩司君、晩御飯まだ?」


 僕がキッチンで野菜炒めを作っている最中なのに、妻の愛佳(まなか)が不機嫌そうに背中に向かって急かしてくる。僕は野菜を炒めながら顔だけ後ろを向くと、愛佳はふくれっ面で、何も乗っていないお皿を前にして自分の席に座っている。


 僕は「早くご飯が食べたいのなら、お前も何か手伝え!」と叫びたい気持ちを抑えて、「もうすぐ出来るよ」と愛想良く返事をした。


 正直僕の心の中は修羅場の真っ最中で、晩御飯の用意なんてしている気分じゃないのだ。だけど、お腹が空くと機嫌が悪くなる愛佳の為に頑張っている。


 今、僕が陥っている修羅場は二つある。どちらも微妙に関連しているのだが、今のところ解決方法すら分からず、きりきりと胃が痛んで治まらない。


 なぜ僕がこんな目に遭わないといけないのか? 自業自得の面はあるが、僕だけが悪いのか? 理不尽な思いが湧いてきた。



 二年半前、愛佳は元カレの幸田義人(こうだよしと)にこっ酷い振られ方をして捨てられている。


 義人は僕も友人で良く知っているが、最低な奴で、能力のパラメーターを女を落とす事だけに全振りしたような男だ。努力が嫌いで能力が無いくせに悪いところを注意されるとすぐ拗ねる。仕事も長く続かず、バイトを転々としている。それでいて女にだけはマメで優しく、甘い言葉も照れる事無くスラスラ口から出てくる。実現する見込みのない夢を語り、女に貢がせる事を恥とは思って無く、その場だけの快楽で生きている男だ。


 そんな奴に愛佳は惚れて、最後には捨てられてしまったのだ。


 僕と愛佳、それに義人とその幼馴染の牧田瑠美(まきたるみ)は小学校時代からの同級生で遊び友達だった。


 当時からコミュ症気味な僕と比べて義人はクラスのムードメーカーで男女関係なく人気者だった。悪ふざけが好きで、暴走する事もある義人を諫めるのは、いつも瑠美の役目。彼女は義人のお隣さんで、それこそ生まれた時から一緒にいる姉のような存在だった。


 中学に入り色気づき出すと義人は本来の女癖の悪さが顔を出し始める。


 瑠美と言う実質的な彼女が居るのにあちこちの女に手を出し、年上の女で童貞を捨てただの、どこそこの女の処女を奪っただの、中学生にしては刺激の強過ぎる自慢話を僕にしてきた。


 当時から愛佳は義人の事が好きだと僕は感じていた。愛佳は幼く見える外見同様に頼りない面があり、このまま放って置けば必ず義人の餌食になる。なので、僕は必死に邪魔をし続けていた。もう、その頃には愛佳の事が大好きだったのだ。


 仕草が大げさで、一々オーバーアクションなのを嫌う奴も居たが、僕は彼女の軽やかに動くポニーテールが大好きだった。ちょっと天然なところもあるが、無邪気で顔も可愛い。その顔やポニーテールは二十代後半に入った今も健在だ。


 それに、愛佳は自分の感情を素直に表現する。僕は人の気持ちを察するのが苦手なのだが、愛佳に関しては迷う事なく気持ちが分かった。彼女と居ると安心できるのだ。


 そんな天使のような愛佳を、悪の義人から守る事が僕の使命だと信じていた。


 僕達の関係に変化が現れたのは高校に入ってからだ。


 僕と瑠美は地域でレベルの高い公立高校で、義人と愛佳は最低レベルの私学に入学した。正直、僕も義人達の学校に行きたかったが、レベルが低くお金の掛かる私学を許可する程親も馬鹿ではない。結局、僕と瑠美という二人の監視役が無くなった義人と愛佳は付き合い始めた。


 二人が付き合い始めても、義人に関しては悪い噂しか聞こえて来なかった。愛佳に連絡して様子を聞いても、浮気の愚痴ばかりで楽しい話など一度も無い。もう別れろと何度も忠告した。他の友人から聞いた悪い噂も教えたし、このまま付き合っていても幸せになれないと諭したが、愛佳はでもでもだってと、義人の良い面で僕に反論し、別れようとはしない。


 僕は強烈な劣等感を感じた。義人はあんなに酷い事をしても愛佳から愛情を向けられるのに、僕はこんなにも親身に相談にも乗るし優しくしていても男として見て貰えない。怖くて告白は出来なかったけど、僕の気持ちは分かっている筈なのに。


 僕は自分に男としての魅力が無いのかと真剣に悩んだ。人間的に見て、僕が義人より劣る筈は無いのだ。僕の方が努力家だし、人の気持ちを考えて(外れる事もままあるのだが)行動するし、何より好きな人を裏切ったりしない。


 ただ一つだけ、義人は天才的に口が上手かった。良くあれだけ次から次へと軽口が出てくるものだと感心させられる。僕より優れているところなんてそれだけなのに、奴がこれだけモテて、僕が女に相手にされないのは男としての魅力がない所為なのだろう。僕はずっとこの劣等感を抱えながら苦しく過ごしている。


 愛佳は良く笑う女の子だった。頭は良くなかったけど、いつも明るく元気な女の子で、僕は落ち込んだ時に何度も慰められ勇気付けられた、そんな愛佳の笑顔が大好きだった。だが、義人と付き合い出してからは、暗い表情をする時が多くなった。そんな表情の愛佳を見ているのは本当に辛かった。


 僕からも義人に直接意見をしたが、結局愛佳が好きで義人の元に行っている限りは、モテない男の僻みにしかならず、どうしようも出来なかった。


 瑠美に何とかして欲しくて相談もしたが、義人と付き合っている訳じゃなく、注意はしているが効果が無いと言う。実際義人と瑠美にはキスすらの関係も無いらしい。俺からすればあの女好きが手を出さない事自体が瑠美を大切に想っている証拠で、特別な存在だと思うのだが、本人はそう思わないらしい。余り煩く言うと自分が嫉妬しているように取られるのも、瑠美にとっては嫌だったみたいだ。


 そんな僕達のいびつな関係は高校を卒業してからも続いた。


 僕と瑠美は別々の大学に進学し、義人と愛佳はフリーター生活となった。普通で考えれば僕なんかは縁が切れて当然なんだが、愛佳を諦めきれなくてしつこく連絡を取っていた。


 義人は実家を出て一人暮らしを始め、愛佳が押し掛ける形で同棲生活になっていた。この頃の義人と瑠美の仲は良く知らない。瑠美とは連絡を取っていたが、義人の話題は避けられている感じがしていた。ただ、瑠美は実家に居たが、義人と完全に疎遠とはなっていなかったようだ。


 僕は変わらず愛佳と会って愚痴の聞き役を果たしていた。愛佳が僕に会いにくるのは義人も公認だった。恋人が男と二人で会うのに何も言わないのは、僕に手を出す勇気が無いと高を括っているか、愛佳の事をそれ程大事に思っていないかだ。義人はどちらの気持ちも持っていたんだと思っている。

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