作家編集コンビの少し前の話1(下)
興奮が過ぎ去った二人組は、ばつが悪いように頭をかく。
「えーと……ごめんなさい、お店の中で大騒ぎしちゃって」
「オレが先生を止めなきゃいけなかったのに、釣られちゃって……お恥ずかしい限りッス」
カウンターの向こう側から、マスターが落ち着いた様子を崩さず答えた。
「お客様が心置きなく盛り上がれるのもこの喫茶店の美点に数えていただいていますから、気にする必要はございません。それにお二人が驚かれるのも僭越ながら理解できますし――」
「親戚の方が小説家で、私が作品をコミカライズする予定の縁で会ってサイン本を渡した子供……君の名前は、確か」
北小路が記憶を引き出していると、編集者――重野トクヒコは大きく頷き名刺を取り出す。
「重野篤彦です。――当時は寛大にも、いろいろありがとうございました」
重野という苗字で記憶が蘇った北小路は、納得したように頷いた。
「やはり君か……あの時の、
北小路の述懐に、天色シュウが声を上げる。
「は!? 用もないのに先生に
「ま、まぁ……」
「ずるい……じゃなくていけないんだ! 編集者サン、あたしにコンプラに気をつかえって言うくせに――法律は順守しろ、余計なことは絶対するなって言うくせに!」
「い、いや当時の私が注意しなければならなかったんだ。重野くんは悪くない」
天色の非難するような言葉を聞いて、北小路は落ち着かなくなる。まさか、二十年前にうっかり者の自分が少年に不用意に
「 もうこれは編集者サンの奢りでしか償えませんね! すいませんマスター! この……巌窟王みたいな名前の料理追加で! 」
「
安心した北小路は、重野トクヒコに声をかける。
「重野先生はお元気だろうか? コミカライズの企画が頓挫したあと、作家身分の剥奪処分を受けたと聞くが――」
「あぁ、実は礫比斗伯父。二十年前に亡くなったんスよ。なにぶん昔のことすぎますし、無免連に入ってからは数少ない仲間と連絡しなくなったんで知らん人も多いんスけどね」
「そうだったのか……」
北小路は自分の失言に眉をひそめた。そのせいで北小路は、パンケーキにフォークを入れた天色の顔が見られなかった。
「……いま、なんて言いました?」
天色の言葉に重野は返す。
「荒家ピロシキ先生が、『そうだったのか……』」
「いや、その前。こう聞いた方がいいでしょうかね……編集者サン、あなたいったい誰の甥っ子ですって?」
「重野礫比斗、スっけども……」
繰り返しを要求する天色に重野は少し気が立ったように、レモンティーにティースプーンを入れてかき混ぜる。担当編集の回答に、天色は大きく目を見開いた。
「……まじですか」
「あまり公言したくないんスけどもね。ほらこう……伯父、今でもいろいろ目の敵にされてるんで」
北小路はコミカライズ企画が立ち上がった時に、風の噂で聞いた話を思い出していた。歴史小説家である重野礫比斗の家には歴史研究家が欲しがる貴重な史料が多数収蔵されていること。偏屈な作家であると同時に腕の立つツクリテである彼は『抹殺作家』と呼ばれていたが、それは歴史研究家がどんなに言っても貸すことも見せることも許さずに、『あの爺は歴史研究者の好奇心をくすぐって狂い殺すのが目的なのだ』などと言われていたことも関係すること――コミカライズ企画が頓挫したのも、どこかの歴史研究会が創務省に「重野礫比斗の小説は、子供が正しい歴史観を持つことを阻害する」などと陳情したからだと聞いた。
「……あたしが荒家ピロシキ先生に会ったのも、レキヒト先生の――重野礫比斗先生のお宅です」
「は?」
天色の言葉に、重野が驚いてティースプーンを取り落とす。銀色の短いスプーンは、琥珀色のアイスレモンティーの中、氷と溶け残った砂糖の上に着地した。
「天色先生、あの家にいたんスか……?」
「◒◒県の▷▶︎市ですよね? 近くに× ×大学があって、煉瓦造りの大きな外壁に支柱を添わせて朝顔をまとわりつかせてた」
天色の言葉に描写される特徴は、北小路の記憶にも沿う。礫比斗自身は和装だが、彼の自宅は洋館だった。ただ外壁にまとわりつかせていたのは蔦ではなく朝顔だったり、窓にはカーテンではなく障子が備え付けられていたり。和洋折衷、といった言葉が似合う不思議な屋敷だった。
「え……伯父は作品の参考史料として、ニジゲンをちょくちょく拾ってたけど……まさかあの人嫌いの伯父が、人間の子供を拾ってたなんて──!」
驚く重野の横で、北小路は記憶をさらう。
「……もしかして君は、あの日書庫から出てきた子……だろうか?」
重野少年が伯父の言いつけで台所へお茶を用意していったときに、近づいてきた子供がもう一人いた。歳の割には背が高い、どもりがあった女の子。確かに北小路はその子にも──サイン本を贈った覚えがあった。
「はい。先生に気軽に話す男の子のことが妬ましくて睨みつけていた子供です──思い返せばあの男の子。編集者サンだったんですね」
「あ……あの、書庫にこもりきりの子供ッスか! ニジゲンかなんかだと思ってたッス」
「あたしも、なんで先生のお宅に遊びに行くのを許されてたのか……今でも分からないんですよね。編集者サンがあたしのことを、認識できなかったのも無理はありません」
「伯父が死んでからあの屋敷は父の管理になって、書庫を相続したオレも二十歳になるまで入れなくって……オレ、てっきりあの子供のことをニジゲンだと思ってたんで心配してたんスよ。寝床をなくして困ってないか、創務省にとっ捕まって処分されてないか没になってないかとか。うわぁ……人間だったんスね」
「……まぁ、そうですね」
感慨深げな重野を前に、天色は小鼻を膨らませながらそっぽを向いた。
記憶のすり合わせが落ち着いて、生み出された沈黙にマスターが話を総括した。
「では、今日は突然挨拶もできず別れた幼馴染が、再会した日──ということですね」
「……」
「……」
「『事実は小説よりも奇なり』との言葉もありますが。作家と編集者としてより良い作品を作るため、毎日のように顔を合わせる戦友が、既に幼い時分に出会っていた──このような運命的な筋書きを、現実で目の当たりにできるとは」
「……」
「……」
マスターの顔色は変化しないし、眼鏡は光を反射して、奥の目がどうなっているのかは誰にも見えない。しかしいつもより増えている口数が、彼の興奮を伝えていた。
しかし、マスターの言葉を聞く作家編集コンビの顔色は急変していた。特に天色の変化は明白で、顔が蒼白になっている。担当編集に何を言われてものらりくらりと躱す彼女が、脂汗を垂らすほどに──動揺している。
「あー……マスター、その表現はちょっと……やめて欲しいス。遺憾の意を表明するッス」
「いや……編集者、サン。これはあたしが説明するんで──編集者サンはこれでも食べててくださいよ」
担当編集にパンケーキを押し付けて、天色シュウはマスターに向かう。
「この展開、確かに他人であったら、漫画の中ならとても面白い伏線回収だと思います──でも、『編集者サンと天色シュウが幼馴染だ』というこの解釈は──地雷です。あたしの前で言わないでください」
人懐っこい大きな瞳が柔らかくも三角形に尖り、まっすぐな眉が吊り上がっている。『あたし怒ってます!』と主張するその表情は、この店で初めて天色シュウが見せるものだった。
「……申し訳、ありませんでした」
マスターが慇懃に腰を折る。それを見た天色は、怒りの表情をすぐに崩して手を横に振る。
「こっちこそなんかすいません。今日のお代は編集者サンが払いますし、あたしがこの店の利用をやめるつもりはないので、明日来ても笑わないでくださいね? ……あたし、『同い年の男女の恋愛』がめっちゃくっちゃに苦手で。あたしと編集者サン、同い年なんですよね。もういい年した大人ですし、同い年男女なのはしょうがないって割り切って話せますけど……『幼い頃に突然別れ、大人になってから再会した幼馴染』だなんて、そんな『運命的な背景』がある男女ふたりなんて──恋愛カップリング視されても文句は言えません」
「……漫画のなかと違って、現実ではそうとも限らないと思うぞ」
北小路の言葉に、天色は首を横に振る。
「創務省や出版社のお偉方が現実と創作をごっちゃにするんで、こっちが気をつけなきゃならないんだって編集者サンもよく言ってます。それに──ほかでもないあたしが、気にしちゃうんです」
「……」
北小路は、今まで見ていた天色と重野のやり取りを思い返していた。二回りほど歳の離れた男女の結びつきを描きたい天色に、編集者重野が何回も言っていたことだ。──男のほうが年上の歳の差恋愛は、著作倫理法を根拠とした検閲が横行する現代において性的虐待を連想させる、と言われることがある。腕力も社会的地位も上の方が多い成人男性が、か弱い少年少女に毒牙をかけた例は歴史上に数多くあるからだ。
天色が思い入れをかけた描写であるからこそ、真に迫り受け取り方によっては過激だと言いがかりをつけられ検閲に引っかりやすくなる。漫画作品は漫画家が原稿を描きあげた後、自動的に生まれるものではない。出版社が装丁を決定し、印刷所が発行し、運送業者が発送して、書店員が店頭に並べて初めて読者に届く。ここまで人の手がかかる作品が、もし途中で創務省の検閲に引っかかり発売禁止を決められたなら──見込まれた利益は誰の手にも渡らない。出版社には、創務省に発禁を食らうような作品を生み出さない責任があるのだ。出版社の内部審査の厳しさは創務省と同等か、場合によってはそれ以上であるという噂もある。
重苦しくなった店内の空気を跳ね返すように、天色シュウがカウンターに向かう。
「と、いう訳で今日はあたし帰ります。えーと……モンテクリスト、もう出来てますか?」
「……もう、すぐ出来上がるところです」
「じゃあ、出来たてを持って帰りますし明日もきっと来ますからね。お代はちゃんと伝票に書いてくださいね」
ハムチーズを挟んだサンドイッチを卵液に漬けて、フライパンやオーブンで加熱してフレンチトースト状にした料理『モンテクリスト』。それを受け取った天色は、いつもより早い足音を響かせて帰っていった。
「……」
「……」
「……」
カチャ……カチャ……
店内にはフォークと皿が擦れる音だけが響く。天色に託された三段重ねのパンケーキを、重野が食べている音だ。
「……ごちそうさま、ッス」
クリームやソースも残さず完食した重野は、皿と伝票を持ってカウンターに向かった。
「あぁ、……ありがとうございます」
レジに向かったマスターに、重野編集も深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそマジですいません。これからもこの店を打ち合わせに使わせてほしいッス。オレ、ここの紅茶はガチで気に入ってるんで。それに、『書庫にいたニジゲン』が無事にいたってことが知れて嬉しくて、話の流れを変えられなかったオレが悪いんス。オレ、先生の担当編集なのに……」
「いえいえ、編集者だからと言ってそこまで気になさることはないでしょう」
マスターの言葉に、重野は大きく首を横に振る。
「オレが気にするんス。ツクリテとしていつ死ぬか分からん漫画家の天色先生の頭を、創作のこと以外は考えないでいいようにしたいんで。……そうでもしないと、伯父に──先生の『あたしの先生』に、勝てない」
「? 重野先生に勝てない、とは?」
北小路の質問に、青年は吐き捨てるように答えた。
「……先生が、いつもブラックスーツ着てるのは。二十年経って、遺族のオレすらとっくに喪が明けたにも関わらず。今でも伯父の喪に服してるからに違いねえんスよ」
それを本人に確かめたことがあるのだろうか──そう問いただすには、決めつけている口調が強すぎた。一本気な青年の思い込みに、今は口を挟む時ではない──北小路はそう、思った。
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