さんーきゅう 死者
朝と共に生まれ昼のあいだに線を引く。
夜はいずれ。
長き一日だから、これは忘れちゃならない。
渡されている。何か持っていた。
――これは線を引くものだよ。
誰かにそう教わった。
言われた通り、引いてみる。
かりかり、さりさり、とひとつ。
中に隠されていた湿り気を帯びた土、浮かび上がる気泡。カニ。
カニは弱っていた。
反対に、線は生き生きと動くものだから、丸になる。
一日は長い。それは気のせいかもしれない。
こんな線を引くのが楽しければ、すぐに。ずっと。
ひとつ。大きな雷鳴が轟く。
嵐がやってきて、線をかき消す。
家の中へ逃げ込まないと。
雨が窓を打ち、机は色々なもので埋められている。
カニもそこにいて、書き物をしようとすれば切手くらいの隙間しかない。
ペンを取ればカニがそれを奪おうとする。
もう弱ってはいなかった。地面でよく見かけるサワガニだろう。茶色く、地味に歩き回る。
夜はいずれ。
部屋は昼間でも暗く、火が欠かせない。
火を持ち、部屋を照らし、嵐の終わりを待つ。
書き物には「来ない」と一言。
ばりばりとカニを潰すのを恐れているから、火は欠かせない。
昨日郵便屋は行っちまったよ。
嵐が止んだ後に認めた手紙を郵便受けに入れたところ、久しぶりの郵便屋はもう行ってしまったという。
次来るのはいずれ、夜が来てからだ。
――食ってくか、これもうダメになっちまう。
朝に作られたお饅頭は素早く食べないとすぐに腐る。皮が少し酸い。
これは発酵がいいんだ。そう言われたから、おいしい気がする。手紙は持て余している。
――出しといてやるよ、まだ引かなきゃならないだろ。
――うん。
線を引く。かりかりと地面に引っかかりながら、形が出来る。
円は次第に揺らぎが消え、幾何学的な形が増える。
だから楽しい。これは線を引くものだから、忘れちゃならない。
だからカニのことなんて、すっかり忘れてしまった。
カニは地面に引いた線の跡から現れる。ぷくぷくとした
線を引くのは楽しい。
けれども、それで生まれ行くカニたちはどうだろう。
二度目の嵐が来た時、これまで精いっぱい、楽しんで引いて来た線は全て消えた。
その暴風の中で、小さな洞穴で震えていた時、カニたちが空へ飛んでいくのが見えた。洞穴の中へ、顔に張り付いたカニはほとんどが潰れていて、悲しい。
その暴風で火はまったく灯せないから、夜のような気持ちがした。
夜はいずれ。
過ぎ去る夜は嵐。
――沢山のカニが、いたね。
――嵐で全部、消えちゃった。
嵐が明ければ、子供たちはカニの死骸を拾ってカゴに集めていた。どうやら食べるらしい。この地域では、そうやって嵐が来るたびにカニを食べることになっていた。
だから、線を引いてやって来た時には、少し迷惑そうな顔をしていた。
嵐の跡に、またカニが出て来る。そんなには食べられないから、その幾何学模様と砂を集めるのをやめてくれないか。
そんな視線を感じたけれど、線を引くのはやめられない。これは一度大地に付けば、夜が来るまで離れないから、あの伝え聞いた星々と流星の景色まで、カニと一緒にいないといけなかった。
――食べて行って、お願いだから。
沢山のカニがお腹の中に入った。
土の味がするカニと、やっぱり線は引き続けて、なんだか顔が熱くなった。
湯だったカニのような赤、夕焼けに染まって夜の準備が始まる。
慣れてきて、楽しい。幾何学模様から、様々な生き物が生まれる。
カニとそれを狙うクモと、それらを糧にするトリたちと、じっと待つ。線が引かれるのを、じっと待つ。
カニでいっぱいになったお腹のせいで、線からカニが出て来ることが少なくなった。そうやって他の生物が現れて、そこに円が生じていく。
そうして夕陽に照らされていた。
涼しくなっているはずなのに、顔だけが熱いのは、夕陽だから。
これをずっと見て、それを食べていたい。
そうすれば、円は続けられるし、線も続く。
――よくここまで来たね、深い谷があったろう。
――ありませんでしたよ。
線を引いている内に、彼らが思う世界は変わっていた。けれども、それには驚かず、穏やかに頷く。
もう、谷はない。不思議と納得できるんだ。
かつて別れの谷と呼ばれていた場所はもうなくなって、話しかけて来た彼の別れも、もうなくなってしまった。
それを悲しいと思うだけの熱さは消えていた。そこには、安堵が。
彼を顔を見て、空を見上げる。
もう、星々がまたたく夜が、すがたを。
線を引くものは、流星に焼かれて、これまで引いた線はその残り火で燃える。
幾何学模様の炎が、来た道にずうっと広がっている。
夜はいずれ。
この残り火を呑み込んで、黙する。
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