老父

高橋鳴海

老父

 私が書いたこの手記が人目に触れる時にはすでに私はこの世を去っていることだろう。故に、書き出しにはこれを初めに読んだ者に対する注意と願いを記して置こうと思う。


 これを読む誰かもわからぬ君よ。君がこの手記を手に取ったということは、君は私の親類に当たる者かもしくは私の友人だろう。まずはありがとう。そして悪いことは言わない。この先を読むことはあまり勧めない。




 こんなものを書いておいて、と君は言うかもしれないが私がこれを書き残すのは辛うじて残っている己の僅かな正気を保つためであるからだ。

 決して。決して、この手記を何者かに読ませるという意図はない。読むな、とは故人である私に言う権利はないが、好奇心は猫を殺すというイギリスのことわざがあるように、君が興味を持ちこれから先を読むのであればそれ相応の態度を持つがいい。

 私はその先の事には一切の責任を持てない。何せ故人であるのだから。




 さて、長い注意事項の次はささやかな願いを端的に書くとしよう。


 この手記を見た者はこれを誰にも見せず速やかに処分してほしい。






 昨年。一九九一年某日のことを記す。


 私はその日、今から三年前に亡くなった敬愛する祖父の遺品の中から奇妙な古いメモを見つけ、明霧街のから少々離れた山奥にある祖父が残した別荘で調べ物をしていた。


 その別荘は古い洋館でそれなりの大きさがあったから一人で調べるには数日ほど時間がかかった。それこそ特別私に甘かった祖父が残してくれた遺産でもって生計を立てているような売れない作家である私には時間と言うのはそれこそ無限に等しいほどあったし、この調査が創作に役立つと信じて疑っていなかったから、どれだけの日数をかけようともそのメモに残された事柄にについて明らかにするつもりでいた。




 さて、そこを詳しく語る前にそもそも私がどうして祖父の遺品の中にあったそのメモに書かれていることに興味を持ったのか、という話をしよう。


 生前、祖父は私や親族だけではなく近所の人々にも好々爺として知られており、その人望たるや祖父の体調に何かがあると都度周囲へと広まり、見舞い人が土産を持って押し寄せるというほどであった。


 しかしながら、そのメモに記されていたのはそんな祖父に似つかわしくない恐ろしい研究に纏わるものであったのだ。


 『アル・アジフ写本と不滅の法の研究について』と題されたそのメモには、彼によって晩年まで行われたことを確認できる実験と、それについての考察が書かれていた。中には、ここに書き起こすことも憚られる内容のものが多い。簡単に言語化するのであれば、人体実験でいいだろう。兎に角そこには恐ろしく、そして愚かで悍ましい探求について事細かに記録されていた。


 そして、全く浅ましいことに初めてそれを見た私は興奮した。想像の世界が目前にあるようなそんな感慨を覚えたからだ。実際、それは正しくはないが、間違った感覚ではなかった。故に、私は豪奢な飾り付けをされた見事な餌に飛びついたのである。それが己の身を亡ぼす行いであるとも知らずに。




 洋館を訪れたのはメモを見つけてから数日後。実験を行った場所が、その洋館の隠された地下室であるという記述を見つけたためであった。


 洋館は古めかしく、けして華やかなどという様相ではなかったが、大正のモダニズムに溢れた素晴らしい建築で、内装もそれに伴った大正ロマン的なものになっている。




 私はそれにまた興奮した。




 しかしながらその時、不可解であったのは祖父が亡くなってから随分と時間が経つのに、少しの埃臭さも感じず、隅々まで手入れが行き届いていることである。

 聞いた話だと、祖父が亡くなって以来ここを訪れるのは私が最初であるはずだった。おや、と思ったがその時の私はそれについて深く考えることはしなかった。


 一先ず私は二階へ行き、客室として用意されているらしい部屋の一つに荷物を入れると、各部屋を回って間取り図を作った。


 広い洋室二部屋と私が使っているものを含めた狭めの洋室四部屋が二階にあり、狭めのものが客室、広いものは祖父が生前使っていたらしき部屋と書庫とにそれぞれなっていた。一階には食堂とキッチン、それから風呂場や倉庫代わりに使っていたと思しき部屋など様々な部屋があったが、如何せん部屋数が多過ぎるし、残りは書くほどのものでもないので省くことにする。




 さて、一番初めに私が手を付けたのは書庫であった。




 その書庫には博識であった祖父が古今東西から集めた学術本の数々が所蔵されていて、中には海外のものも多い。中には私が見たこともない言語のものも少なくはなかったので、まずは読めるもの読めないものを選別するところから始めた。


 学術書とは書いたがその実、その大半が胡散臭い錬金術や黒魔術に関連した書籍の類で、やはり私の知る祖父が収集したとは思えないようなものばかりで、それがまた私の好奇心を一層引き立てた。


 数日の間、書籍を次から次へと開いて閉じて、読めるものかどうかを判断しているとある一つ気になる本を見つけた。それは何の変哲もない革装丁の本だ。




 どうしてその本を気にして手に取ったのか、考えれば考えるほどにわからないがスペイン語で書かれているその本が『アル・アジフ』と表題されていることに気が付いた時、私の身体を駆け巡ったのは純粋なる喜びであった。


 戯言を連ねたとも思えるような祖父のメモに記された祖父の実験の鍵を握るその本を見つけた時、私はある種の狂気でもってその本のページを一心不乱に捲っていた。ああ、そうだ。あの時だ。私という猫がその好奇心で持って、あの忌々しき老父の罠にかかったのはその時だったのだ。




 私が『アル・アジフ』を読み切るには二日ほど時間を要した。祖父の教えで語学を学んでいた私ではあるが、やはり日本語以外の文章を読むのは骨が折れた。私は二日間、水分以外は何も取らず、また睡眠どころか排泄を除く人間的な習慣を忘れたようにその本を読んだ。


 狂える詩人によって生み出されたそれは、この世の非道と邪悪を何重にも重ね、その悪意でもって書かれており世の中の常識を覆す恐るべき邪法と彼方より来たりし悪夢共の存在を私に感じさせるには十分であった。私は恐怖した。そして、同時に探求を望んだ。




 私が次に取った行動は睡眠でも食事でもなく、一階の倉庫部屋に向かうことだった。


 恐怖と探求。そのどちらが私を動かしたのか定かではない。多くの人間は探求に恐怖が負けたと言うのだろうが、そうではない。その両方共が私を動かすに足る十分な感情であり、衝動で会った。あるいはそのどちらでもなかったのかもしれなく、その魔導書の狂気に取り憑かれていたということもあるのだろう。




 あの時の私はどこか異常であった。




 まるで何かに誘導されるように私は倉庫部屋の扉を開けた。


 そこは他の部屋の洒落た雰囲気とは違い薄暗く陰鬱としていて、ジメジメとした嫌な空気のある部屋だ。ただ、その時の私はそんな部屋の雰囲気などまるで気づかぬとでもいうようにその部屋の奥を目指した。


 気が付くと私は自然に積み上げられたガラクタの入った段ボールの山を崩していた。別にぼうっとしていたわけではない。私は明瞭とした思考と何かがあるという訳の分からぬ確信でもって、その段ボールを移動させていた。自然とそういうように体が動いたのである。




 不可解なことはまだ続く。




 私が移動させた段ボールが積み重なっていた場所には、大人一人が通るぐらいの狭い通路があった。私はまたもその先にこそ何かがあるという不明瞭な確信を抱いて、その通路をずんずんと進んだ。


 少し進むとすぐに通路は広くなり、また少し進むと地下に下りるための階段が見えた。


 階段まで辿り着くと流石に暗く先が見通しづらくなっていた。幸いなことに電灯はあったのでスイッチを入れて階段を下りる。




 そこには館と同様、埃臭さもカビ臭さもなかった。流石に私も妙に思って、階段を下りながら壁などに触れてみたり、しゃがみ込んで階段そのものの様子をみたりもしたが、驚くほどに綺麗であった。


 不思議に思いながらも私はやはり階段を下りた。果たして、階段を下りたその先でその不思議は解消されることになる。




 階段を下りきった先にあったのは木製の扉。特別厳重な施錠がされているわけでもなかったので、簡単に開くということはすぐに見て取れた。


 そして、私はその扉の先に進もうとした。進もうとしたところで一瞬怯んだ。


 思えば、この時のその一瞬こそが私が己の運命から逃れる唯一の瞬間だったのだろう。しかしながら、私はその躊躇を振り払って扉を開けた。


 ギィというような音を立てて開かれた扉の先にあったのは深淵の如き暗闇であった。




 私はその様子を認めるとまずは明かりをつけるべくスイッチを探した。ほどなくして、近くの壁にスイッチを見つけた私はそれを押して部屋中に明かりを灯した。


 その部屋にあったのは一台の机とホルマリン漬けにされた多種多様な生物の部位、それらを置くための金属製の棚である。




 私は慄いた。




 何も部屋の様子にではない。いや、それ確かにそれも愕然とするような事柄ではあるのだが、私が驚き、恐怖したのはそこではないのだ。


 よぼよぼの体躯で杖をつきながらこちらに近づいてくるそれ。目の前でニチニチとした気色の悪い笑顔を浮かべるその老人に、私は見覚えがあった。




 ともすれば、親の顔と同等かそれ以上に馴染みがあり、親戚の誰よりも地味でのろまであった私を大切にしてくれたその顔は、いまや悪魔をその全体に張り付けている。


 私の目の前で立ち止まったその忌まわしき爺、それは紛れもなく祖父だったのである。




 驚きと恐怖で黙り込む私に祖父は「よく来てくれた我が孫よ。お前であれば必ず来るであろうと思っていた」と言った。その声は人のものとはとても思えない唸り声のようだった。反応に窮する私に彼は「お前のことを信じていたさ! ああ! 信じていたとも! お前であれば我が屋敷を訪れると! 長かった。そうさ、永かった。お前で最後だ。これでオレは死と生の境界を跨ぐことができるのだ!」ぐっちゃぐっちゃと気色の悪い音を立てながらしわしわな口を忙しなく動かしてそう捲し立てる。私の身体は目の前の老人に怯え、硬直していた。祖父はなおも続ける。




「嬉しかろう。嬉しかろう! ああ、我が孫。愛しの我が器よ! お前はオレのためにあるのだ! 貴様の親も、皆、そう皆、お前がオレになることを望んでいる! 全ては、我が生涯の全てはこの日の為にあった。おお、感謝します。感謝します大いなるクトゥルーよ! Ia! Ia! Cthulhu fhtagn! Ia! Ia!」




 狂ったラッパのような声でそんなことを叫びながら、彼は私の右腕を引く。それは彼の皺くちゃでよぼよぼとした細腕からは想像もできないほどの怪力で、私はガッチリと掴まれた腕を引き放そうとしたがびくともしない。


 私は目の前の年寄りに初めて恐怖した。己こそが好奇心に殺される猫であることを悟ったからだ。


 殺される。このままでは殺されてしまう。そんな焦りが私の全身を駆け巡った。今までの自分の行動を後悔したのはこの時が最初だった。


 離してくれ! 離してくれ! そんなことを宣いながら足を踏ん張って抵抗する。




「おお、我が孫よ! 安心しろ。痛くはない。お前が読んだものにも書いてあっただろうが、ユゴスの忌まわしき菌類どもの技術は優秀だ。奴らとの協定でお前の脳は丁重に扱われる。お前は何も心配しないで肉体を明け渡せばいい。死にはしないのだから!」




 それに対し私は嫌だ! とかふざけるな! あんたは祖父さんではない! だとか、そんなことを無茶苦茶に叫んだ気がする。すると、祖父は一度止まってそのしわくちゃな顔を恐ろしい形相に変えて怒鳴った。




「黙れ! 薄汚い文士がこのオレの器になれるだけで光栄だとわからんのか! お前、オレが何のためにお前にわざわざ親切をくれてやったと思っている!」




 それを聞いた私は我も忘れて、ただ一心に彼の腕から離れようとした。この時の幸運は私の左手が空いていた事、そして祖父が私を引き摺る際に机を迂回した事、そしてその通り道にホルマリン漬けにされた動物が入る瓶の棚があったことだ。




 瓶を手に取ると力強く目の前にいるおぞましい老人の頭に振り下ろした。ガツン、ガツン、ガツンと三度彼の頭を殴りつけるとそいつの身体は揺れ、私の腕を掴んでいたその万力も流石に緩んだ。


 逃げるというただ一点において研ぎ澄まされた私の感覚は、この時迷いなく逃亡を選んだ。周囲の瓶を手当たり次第に老人へと思い切り投げて、一心不乱に来た道を戻った。




 階段を上り、倉庫部屋に出ても走り続けそのまま別荘を飛び出した。持ち物は全て置いたままだ。ここまで来るために用いた車のキーも、もちろん車自体も一切を放棄して私はただ逃げた。


 そして山に不慣れな私が遭難し、それから保護されたのは館を逃げ出してから数日後のことであった。


 私が今この手記を書けているのも、一年という時間を過ごすことが出来たのも全てはあの時私を助けてくれた老夫婦のおかげである。ありがとう。申し訳程度の感謝をここに記す。




 だが、ああ、だがその束の間の日々ももう終わる。




 あの洋館の地下に居たおぞましい老人が本当の祖父であり、彼の言った言葉が事実であったからである。


 あの日から親族は皆一様に私を見張るようになった。父も母も、彼らは私を息子であるとしていたが、その視線から溢れるのは私に対する怒りであり、疑念であった。


 彼らが恐ろしくてたまらなくなった私は、逃げるようにして姿を眩ましたが、逃げ切れるとは露程も思っていなかった。これを書いている今も、全身に奴らの視線が集まっているように感じるのだ。




 いや、感じるのではない。奴らはすぐ近くに迫っている。もはや、逃れられぬほど近くに奴らはいる。




 そうだ、奴らはそこにいる。窓を開ければ、ドアを開ければ、クローゼットを開ければすぐそこに奴らは息を殺し、私を捉える機会を伺っているのだ! ああ! ふざけるな! 私が一体何をした! ああ、私はもう終わる。すぐに私の命運が尽きると知れている。ガリガリと爪を齧る。何やら赤い液体が指を染めが、構うことはしない。




 死にたくない死にたくない死にたくない。ああ、あの爺は死にはしないとは言っていたが私は脳だけなんてごめんだ。肉体がないのであれば死んだのも同然ではないか!




 嫌だ。私はまだ死にたくはない。それらを受容できるほど達観してはいない。




 私は、生きる。生きるのだ! 命運なぞ知ったことではない! 私は私の肉体でしっかりと立って歩むのだ! 私は立ち上がった。つい先ほどまで、私の心を支配していた諦観は尽く消え失せていた。よくよく考えれば、この一年親戚たちに見つかる気配はなかったのだからこれから先ももしかしたら、上手く生きて行けるのかもしれない。ああ、そうだ。私ならどうにか出来るはずだ! まだだ、まだ私は生きる! 生きるぞ! 


 今の私は生きる活力に満ち満ちている。きっと、きっと大丈夫だ。






















 ドアが叩かれる音がした。


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老父 高橋鳴海 @Narumi_TK

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