79.

 ミーティングを終えて、逃げるように支部のビルから出てきた。結陽ゆうひの表情は未だ暗いまま。

 それを見かねて声をかけようとしたが、言葉が出てこなかった。

 私たちは静かに駅へと向かって歩いた。



「…………あ」


 ふと看板が目に入り、足を止める。隣を歩いていた結陽も立ち止まり、看板に目を向けた。


「……どうしたの?」

「新作だなーって。寄っても良い?」


 こくりと静かに頷いたのを見て、お店の中に足を踏み入れる。

 私が昔からずっと好きだったパン屋さん。透子とうこのマンションの近くにはお店がないから、こうして店内に入るのは久々だ。


「明日の朝ごはんの分を買おう。それと、一個くらいなら今食べても良いよね」


 クリームパン、あんぱん、カレーパン。次々とお盆に載せていく。

 私と透子の好みは分かりやすい。

 私は甘いものが好きだし、透子は惣菜パンが好きだ。特にカレーパンには目がない。同じお店で何個もカレーパンを買うくらいだから相当だ。


「結陽は? お店で食べる分と明日の朝に食べる分。好きなの選んで」

「……これ、どんな味?」


 結陽が指差したのはショーケースの一番端の塩パン。

 そっか。こういうのも食べたことないのか……。


「しょっぱいよ。しょっぱくて美味しいやつ」

「ふーん……これは?」


 次に指差したのはウインナーパン。ちょうどケースの中の残りが一個しかなくて気になったらしい。


「ウインナーがパンに載ってて、ケチャップとマスタードがかかってるんだけど……マスタードって分かる?」

「分かんない。どんな味?」

「辛い。私はあんまり好きくない……」


 マスタードもワサビも食べられない。未だにお寿司はさび抜きで注文しているくらいだ。子供舌なのは分かっているけど、こればかりは治らない。


「これにする」

「……大丈夫? ちゃんと食べきってね?」


 普段、絶対に私が選ばないウインナーパンを結陽は選んだ。

 そう言えば、黄川さんの料理教室に行った時もカレーに七味をかけて食べていたし、辛いものが好きなのかな……。


「もう一個、選んで良いんだよね」

「うん。ここで食べる用だね。好きなの選んで」


 一通り店内を歩き回った後、結陽は足を止めた。


「これにする」

「え、クリームパン? 甘いよ、これ」


 私が選んだパンと同じ、昔ながらのクリームパン。このグローブ型のクリームパンは最近じゃめっきり見かけなくなった。

 私は変わらず好きで食べているけど。


「知ってる。春が好きなやつでしょ?」

「私は甘党だからこれが好きだけど……」


 結陽は辛党なんじゃないの。そう言おうと思ったが、嬉しそうにお盆にクリームパンを載せているところを見て何も言えなくなった。

 ちゃんと食べきってくれればそれで良いか……。






「あっま!」

「だから甘いよって言ったじゃん!」


 パンと飲み物を片手に奥のイートインスペースへ。時間帯が夕方だからなのか、他の客はいなかった。

 一番端の席に私たちは座っている。


「この中に入ってる……カスタード? 生クリームとは全然違うんだね」

「全く違う別物だよ。大丈夫? 食べられる?」

「大丈夫、大丈夫。思ったより甘くてびっくりしたけど、これはこれで美味しい」


 甘党なのか辛党なのか。よく分からなくなっちゃったな。

 結陽の様子を見ながら、紅茶を一口。ああ、美味しい——


「春は何でも知ってるね」

「え、そんなことないと思うけど。ふつう——」


 普通だよ。と、言いかけたが慌てて口を塞いだ。


「そうかなぁ。私が知らないこと、何でも知ってると思ったんだけど」


 結陽が気にしてないみたいで安堵した。私にとっての普通が結陽にとっては普通じゃないことが多い。……気を付けないと。



「これから一緒に……知っていけば良いんだよ。結陽はどこにでも行けるし、なんだって出来るよ」

「一緒に……か。ねえ、それって…………ごめん、なんでもない」


 何か言いかけたが止めてしまった。気まずそうな顔をして紅茶を流し込む。その表情は支部を出た時のものとまるで同じ。すっかり元に戻ってしまっていた。


 結陽はさっき、なんて言おうとしただろう……。

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