Side: Blossom

-1-

 時計を見ると午後1時58分だ。僕はさっき見たばかりのスマホをもう一度取り出したけれど、特に連絡は入っていなかった。間に合わないかもしれないとは言っていたが、やっぱり無理だったかな。そう思って、和菓子店の中に入るようみんなに声をかけようとした瞬間、


「染井さん!」


という声が聞こえた。振り返るとくるりと毛先を巻いたロングヘアーを風に躍らせながら、走ってくる新入生が見えた。


「エリー!間に合ったんや」


僕が声をかけると、彼女は嬉しそうに満面の笑みで僕を見た。


「ごめんなさいギリギリになっちゃって。連絡もしないで」


「連絡する暇もないほど全力疾走で来たんやろ?」


「久しぶりの全力疾走でした」


「間に合って何よりやわ。それより少し息を整えて、水でも飲み?」


「そ、そうします」


ふぅと息をつきながら、彼女はバッグから250mLのペットボトルを取り出した。


「染井、これで全員か?」


「はい。いまちょうどそろったとこです」


「じゃあ行くか」


部長の丹原さんがじゃあ行きましょうかみなさん!と、よく通る声で号令をかけた。


 今日の新歓は午後2時にに甘味処「沙菓」で集合だった。僕たちYUI choirの新歓は、基本的に普段の合唱練習に参加してもらうパターンと、今日のように新歓イベントを開催するパターンの2つがある。例年決まったイベントをいくつか開いているけれど、その中でもこの「和菓子作り体験」の新歓は毎年大好評のイベントだった。その分新入生の参加者はもちろん、上級生の参加希望も多い。行きたいと言ってくれた上級生の何人かには参加人数の上限のせいで、お断りをしなければならなかったほどだ。その人たちには、和菓子作りの後で清水寺の夜桜拝観から合流してもらうことにしていた。


「染井君大丈夫?なんか手伝うことあったら言ってね」


今日の日程をスマホで確認していると、後ろから声をかけられた。副部長の芝坂ららだ。


「ああ、ありがとう。和菓子作りに清水拝観、打ち上げの焼肉会と、新歓の締めとはいえやっぱこのイベントはやること多くて大変やな。また手貸してもらうかも」


「何でも言って、私は今日は特に仕事ないしね。新歓隊長一人だけじゃ、やること多すぎやから」


「頼りにしてるわ」


今年は僕が新歓隊長を務めていた。確かに仕事は多くて大変だけれど、部長の丹原さんや芝坂たちがかなり助けてくれるおかげで、手一杯にならずにすんでいた。特に丹原さんは、部長の仕事もこなしながら週一でやってくるテストを全てパスしつつ、僕らのことも目をかけてくれるのだから本当にすごい人だ。


 YUI choirはもともと医学部のみで構成されていた合唱団だったのだが、近隣の大学からも徐々に入団者が増えていって、今では100人規模の大所帯になっている。そんな中部長を含めた幹部は、6年制の医学部で最も忙しいと言われる4回生が担っていた。幹部の中で副部長の芝坂だけは同じ学年で、やっぱり同回生が一人いてくれるのとそうでないのでは安心感が違う。


 そんなわけで、新歓イベントも必然的に参加人数の多い大イベントになり、新歓隊長のマネジメント能力が問われることになるのである。


 えんじ色の前掛けを着けた店員さんが、順々に店の2階へ案内してくれた。階段を上がった先は丸々和菓子作り体験のための部屋になっていて、机が整然と並べられ椅子が所狭しと詰め込まれていた。


「じゃあそれぞれいい感じに散らばってもらって」


僕は全体に声をかける。どこに座ろう、と迷っている新入生に適宜声をかけながら、バランス良く分かれるように上級生が誘導していた。そんな中、僕はさっとあたりを見渡す。


 エリーは部屋の隅に遠慮がちに立っていた。



-2-

「やっほー、ここ座ろうぜ」


軽い感じで僕は声をかけた。彼女は声の主が僕だとわかると、硬かった表情が安心したように緩んだ。いや、僕が勝手にそう思っているだけかもしれないけれど。


「和菓子作りなんて初めてなんで、何だかドキドキします」


エリーは女の子がよく持っているような、小さなリュックをおろして椅子の下のかごの中に仕舞った。それから羽織っていた薄手の黄色いカーディガンも一緒にかごに入れた。


「さっき走ってきたので、暑くなっちゃって」


「よく間に合ったやん。この前練習に来たときは、今度の和菓子作り、集合時間に間に合わへんかもって言ってたのに」


「そうなんですよ。実は昨日、父方の祖父の法事で。京都に戻るのは今日の午前中の予定だったので、ギリギリになるかもしれないって」


「滑り込みやったな」


「間に合ってよかったです」


大きくうなずいたのに合わせて、カールをかけられた髪が波打った。普段はシニヨンにしていたが、今日はお洒落をしてきたのか髪をセットしていた。姉がいるから分かるが、髪をアイロンでセットするのは男が想像している以上に時間がかかる。今日の午前中に京都に戻ってきたのにも関わらず、ちゃんとセットしてきたのは多分、お洒落を見せたい人が参加しているからだ。


 と考えるのは自意識が過剰かもしれない。


 でもきっと本人が気合を入れた部分には違いない。褒めてあげるのは間違いじゃない。


「今日の髪型、よく似合ってるね」


「え、そうですか」


少し照れたように、彼女は右手で軽く手櫛ですいた。


「それでは今から説明しますね!」


全員が席に着いたのを見計らって、店員さんが今日の和菓子作りの説明を始めた。それぞれのテーブルでは既に盛り上がり始めているのか、説明の邪魔にはならない程度に部屋はわいわいしていた。僕もそちらに体を向けようとすると、エリーと反対に座っていた滝に小突かれた。


「おい、染井」


「なんだよ」


説明の邪魔にならないように、小声で答える。


「お前さ、あんまり新入生を口説くなよ」


「口説いてないって。変な言い方すんなよ」


「いや、知ってるぞお前随分その子と仲いいじゃねえか。立場的にも気を付けた方がいいし、それにほら……」


滝が2つ隣のテーブルの方へちらりと目配せした。


「見つかったらただじゃ済まされないぞ」


はあ、と思わずため息が出る。滝が誰のことを言っているのかは見ないでも分かったけれど、ここでそれを引き合いに出されるのはどうにも気分がよくなかった。


「分かってるよ」


答える声が自然と重くなった。


「ん?どうしたんですか、染井さん」


後ろの不穏な気配に気づいたのかエリーが振り返る。滝はさっと身を引いて、さも説明を聞いていましたみたいな顔をした。


「何もないで」


僕は誤魔化すように笑ってそう答えた。



-3-

 僕は別に自分のことを惚れっぽい性格だとは思っていなかったけれど、初めて会った時から彼女には強く惹かれるものがあった。新歓に彼女が来る度にどこか喜んでいる自分に気づいていたし、新歓隊長をやり通せたのも、彼女の存在が正直大きかったと思う。


「ここってこんな感じでいいのかな」


「あっうまい!器用だねー」


隣でエリーは他の先輩や以前の新歓で仲良くなった新入生たちと、楽しそうに話しながら和菓子作りに興じていた。その横顔に、一瞬だけ初めて彼女が新歓に来た時の不安そうな表情が重なった。


 新歓の一番最初は、部室でケーキを囲みながら新入生と大学のことやサークルのことを話す、通称「ケーキ会」だった。初めはぎこちないものの、ある程度、会が進んでいくとみんなも打ち解けていく。その中で、時折不安そうな表情をする彼女が目に留まった。


 みんなで盛り上がっているときには楽しそうに参加しているのだが、周りの注意が自分から離れている一瞬に、時折心細そうな顔をしていたのだ。それがとても無理をしているように見えて、僕は思わずすっと彼女の隣に移動して声をかけてしまった。


「ちょっと疲れたんちゃう?大丈夫?」


「え、あ、すみません。ご心配おかけして」


「ええって。そうや、4月から初めての京都で初めての一人暮らし、大変やろ?」


「そうですね。土地勘も分からなかったりで」


「じゃあおすすめのお店とか僕が適当に喋ってこうか」


彼女が自分を前面に押し出すタイプじゃないのに、新歓だからと無理して前のめりになっている気がした。だからあえて最初は僕が主に喋るように会話を持っていこうと考えた。気がまぎれたらきっと少しずつ話してくれるだろうから、そうしたらバランスを彼女側に譲っていけばいい。そして僕の見通しはそれほど間違えていなかった。


 話をするうちに、彼女は自分を客観視するタイプなのだとわかった。それゆえに自分に自信がないのだと僕は気が付いた。


 彼女の表情がだいぶ和らいだ頃、さりげなくまたみんなとの会話の輪に戻った後は、だいぶ肩の力が抜けているように見えた。


 その日の帰り、彼女は僕のところに来ると


「気を使っていただいちゃって、ありがとうございました」


とわざわざお礼を言ってくれた。


「僕は何もしてへんでー。でも色々喋れて楽しかったわ、良かったらまたおいでな」


君と一緒にいて楽しいと感じる人間もいるから自信もっていいんだよ。そんな気持ちがささやかでも伝わればいいなと思いながら、僕はそう答えた。


 彼女のことをエリーと呼び始めたのも、その日からだった。



-4-

「では、この後の清水寺拝観の班分けを発表していきます」


和菓子作りを終えて、一同は再びお店の前に車座を作っていた。僕は事前に決めていた班をスマホのメモを確認しながらみんなにメンバーを伝えていった。


「で、最後が僕の班で、新入生はエリー一人や」


新入生で一人残っていたエリーに向かって僕は声をかける。


「え、私一人ですか?」


「本当はこの時間から合流してくる新入生がおったはずなんやけど、さっき急にキャンセルの連絡が来てな、班を組み替えると拝観料の封筒を分けなおしたりで大変やったから、そのままにしちゃったんやけど、ええかな」


「はい、その方がよかったです」


「そう言ってくれて助かるわ」


『その方が良かった』。そんなに真っ直ぐに僕の目を見ながら言うのは、正直ずるいと思う。軽く聞き流すつもりだったのに、その言葉が字面以上の意味を持ってしまうのだから。


 上級生は僕と滝、さや姉こと沙耶香先輩、それとエリーの4人で、僕たちも清水寺に向けて出発した。


 とはいえ夜桜の時間にはまだ少し早いので、各班で適宜寄り道をしながら向かうことにしていた。僕たちの班は五条坂をのんびり歩きながらお店を冷やかしていくことになった。


「結構いろんなお店があるんですね」


心なしかエリーははしゃいでいるように見える。


「清水寺は来たこと無いの?」


「はい。京都自体が来るのほとんど初めてなんです」


新歓に慣れているさや姉が、歩きながらもエリーに色んな話題を振りながら話をしている。そういえば一番最初の新歓のときも、京都に来るのは憧れだったと言っていた。


「雑貨屋さんも多いからね、この通りは」


「さや姉はこの辺良く来るんですか?」


「あれ滝君に話したことなかったっけ?私のおばあちゃんの家がここより少し南にあるの。だからこの辺りはよく連れてきてもらってね」


「え、そうなんですか。いいなあ、憧れちゃいます」


「もう少し行ったところに、イチ押しのお店があるの。きっとおねだりしたら染井君が買ってくれるよ」


さや姉が僕の方を見てニヤッとからかうように笑った。話した覚えはないのだけど、さや姉はそういう情報に敏感なので、おそらく僕の気持ちも察しがついているのだろう。


「それは悪いですよ。さすがにそんなこと言わないですって……」


両手をぶんぶんと振っていた彼女は、言葉の途中でとあるお店のショーウィンドウに目を取られた。


「アクセサリーのお店がどうかしたん?」


僕が尋ねると、あ!とさや姉が手を叩いた。


「知ってるここ。落ちないイヤリングでしょ?」


確かにショーウィンドウに飾られたポップには、『痛くないイヤリング』と大きく書かれている。


「私、イヤリングだと痛くてゆるめにつけるんですけど、そうするとすぐ落としてなくしちゃって」


店先に並べられたそれらは、雪をかたどったものや花が沢山ついたものなど、男の僕の目から見てもかわいらしいデザインだった。


「うーん、でもおねだりするにはちょっと高いかなー」


さや姉の軽口に今度は首をぶんぶんと振ってエリーが答える。


「そんなこと言いませんよ!!……でも、いつかは着けてみたいなって」


その横顔は、はっとするほど可憐だった。



-5-

 坂を上り切った頃、ちょうど日も落ちて夜桜見物には絶好の時間帯になっていた。入場料を払って4人で境内に入ると、柔らかなオレンジ色の明かりに照らし出されて、春の夜空に薄紅色の桜が咲き誇っていた。毎年見ていても見飽きることがないけれど、きっと今日のこの桜は忘れられない特別な桜になると思った。


 人の流れに乗りながらゆっくりと夜桜を眺めていく。しばらく歩いていくと、清水の舞台にたどり着いた。少し人を押しのけるようにして、舞台の最前まで進んで行く。眼下には敷き詰めるほどの桜の花が広がっていた。


「写真撮るよー」


さや姉が最新のiPhoneを取り出して素早く自撮りの準備をする。4人で固まって、後ろの桜を背景に記念撮影をした。


「よしっと。私はお守り見てきたいな。ちょっとここで待っててね。あ、滝くんは付き合って」


半ば強引にさや姉は滝を引っ張って人混みの中へと消えていってしまった。もともと気遣いに長けた人だけど、こういうときは本当に余念がない。


 僕とエリーは何となく話のきっかけを見つけられずに、舞台の欄干にもたれながらぼんやりと桜とその向こうの京都の夜景を眺めていた。


「染井さんは、彼女さんいるんですか?」


心持ち普段より小さな声だった。エリーがこちらを見ていないことが気配で感じられた。


「ん?どうして?」


なるべく平坦な声で答える。でも既にこの返答は失敗だった。本当に何も無いならば、YesかNoかをまずはっきり答えるべきだったのだ。それなのにぼかすように鸚鵡返しに理由を尋ねてしまった。それは、エリーにその質問をされたことが僕を動揺させたことの証拠になってしまう。


「いえ」


それに気づいたのか気づいていないのか。けれどエリーは理由を話さず短く答えただけだった。それから彼女は僕に向き直る。その表情は普段と何ら変わらない、屈託のない笑顔だった。


「私、YUI choir入ります」


「ええん?入部宣言の締め切りには、まだもう少しあるけど」


自分でも野暮ったい返しだったと思う。


「でももう決めました」


「そうか。ようこそYUI choirに、やね」


僕の笑顔はきっとぎこちないものだったはずだ。エリーほど上手に笑うことは出来そうもなかった。


 タイミングを図ったようにさや姉たちが帰ってきた。4人で連れ立って参拝路をさらに先へと進み始める。さっきまでと変わらないようにと思いながら、でも心の中である決意が固まっていくのを僕は感じていた。

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