Side: Double

「チッチ、大丈夫?」


つんと背中をこづかれて、あたしは振り返った。いつの間にかコップを持ってヒナが隣に座っていた。顔を上げると、打ち上げも後半に入ったせいか、テーブルを移動している人もちらほらいることに気づく。あたしが座っているのは一番端のテーブルの、しかも窓際だったからしばらくボーッとしていても誰も気に留めなかったのだと思う。


「戻ってきてから何か様子が変やけど、なんかあったん?」


「ううん、何でもないよ」


あたしは笑って首を振る。そしてスマホをそっと机の下に隠した。佳紀に事の真偽を確かめたくてLINEを送ろうとしたけれど、いざ画面を開くとなんて言っていいのか分からない。同じ文面を書いては消し、書いては消し、結局悩んでいるだけで一文字も送れないままだった。


「何でもないって顔ちゃうや……」


心配するヒナが食い下がろうとしたとき、


「やっほ、チーちゃんたちお疲れさまー」


タイミングが良いのか悪いのか分からないけれど、ビールのジョッキを持って永井さんがテーブルの向かいにドンと腰掛けた。頬がだいぶ赤く染まっている。酒好きの永井さんのことだ、今日もかなりのペースで飲んでいたのだろう。


「どうしはったんですか、永井さん。こんな辺境の地まで来はって」


あたしのことを聞きたかったヒナは、若干言葉に険を含ませながら尋ねる。でもすっかり出来上がっている永井さんは気づく様子もなかった。


「新歓は大変なのよ、私が目を光らせてないといけないからねえ」


既に露骨に邪魔っけさを目に宿らせたヒナのことを意に介さず、永井さんは話を続けた。


「昔みたいに爛れた新歓を許すわけにはいかないのよ」


「はあ、またその話ですか」


別にヒナは、普段なら大抵の相手の対応も卒なくこなす。そのヒナがこれだけ明らかに、しかも先輩を相手に邪険に振る舞うのはかなり珍しかった。とは言え気持ちはわかるけれども。


「ごめんヒナ、ちょっとお手洗い行ってくる」


この場にヒナだけを残すのは悪いと思ったけれど、佳紀のことが気になるあたしには、管を巻く永井さんの相手をする気力はなかった。ヒナは気楽そうに「はいよ」とだけ答えた。



『話したいことがある。三条駅の地下道の入口で待ち合わせできる?土下座像のところ』


打ち上げの最中、自分が会話から外れた少しのタイミングで、僕は一気に文面を作った。一度だけ読み返してそのままLINEを送信する。数秒後に既読がついた。顔を上げて離れたテーブルに座るエリーの姿を確認すると、彼女がスマホを見ているのが分かった。そして彼女も僕の方を見た。目があったけれどこの距離からはエリーの表情までは読み取れなかった。


 顔を戻すと隣りにいた滝が見ろよ、と一番端のテーブルを顎でしゃくった。


「永井さんベロベロに酔ってるぜ。悪い人だとは言わねえけど、さすがに最近のあれは老害だと思うぜまったく」


「滝、新入生もいるしやめとけよ」


「それは永井さんに言ってくれ。さっき清水寺回ってるときに同じ班だったんだけど、めちゃめちゃあの話されて、ちょっとうんざりだったんだよ」


「ああ、そうなん」


まだ僕たちが入部する前に、上級生がまだ入部確定もしていない新入生と付き合って、結局入部したすぐあとにこじれて別れたことがあったらしく、その余波で部活運営にまで悪影響を及ぼした事例があったらしい。それ以来永井さんは新入生と上級生のカップルが出来るのを極端に嫌って、そういうことになりそうだとグチグチと文句をつけるのだ。


 エリーを呼び出したことを、遠回りに非難されている気がして、僕は少し席を外すことにした。


「悪い、トイレ行ってくるわ」


でも、後ろめたい思いが心の中に引っかかったままだった。



 お手洗いに行くとは言ったけれど、本当は落ち着いてLINEの文面を考える時間が欲しかっただけだった。あたしたちがいる広いスペースからは離れたところにトイレがあるので、ここの廊下なら喧騒からも離れることが出来た。


 佳紀とのLINE画面を開く。最後のやりとりは3日前の「おやすみ」だった。時刻は10時28分。少し前までは毎日のようにLINEをしていたけれど、ここ最近はその頻度も減ってしまった。おやすみの挨拶だって、今まではほとんど日付が変わる頃に、眠たくて仕方なく送るくらいだったのに。


 2歳年上の佳紀に甘えていたのは確かだった。いや、年齢差以上に甘えていたのかもしれないと思う。佳紀はあたしのことを本当によく分かっていて、くだらない話にも付き合ってくれるし、あたしの思っていることを言わなくても分かってくれたりした。その距離感や優しさが本当に心地よくて、だからいつの間にか当たり前に思っていたのかもしれない。だとしたら、甘えんぼうでダメな彼女だ。


 ありがとう。付き合い初めた頃はちょっとしたことでも伝えていた言葉。一緒にいる時間が長くなったからこそ、ちゃんと言わなきゃいけないんだと思う。


 あたしはようやくLINEに文面を打ち始める。


『少し会いたいです。三条の駅の近くで待ち合わせでどうかな』


読み返すことはせずに、えいやと送信ボタンを押した。すぐに既読がつくことはなかったけれど、あたしはふうと詰めていた息を吐くと、スマホをスカートのポケットにしまった。


 席に戻ろうともたれ掛かっていた壁から離れる。その瞬間に曲がってきた人とぶつかってしまった。


「あ、ごめんなさ……」


それは佳紀だった。


「佳紀……」


一気に心拍数が上がるあたしと対照的に、佳紀はいつもと変わらない様子でよろけたあたしの肩を掴んだ。


「大丈夫か?ぶつかってごめん」


「うん。あたしは大丈夫」


佳紀はあたしに笑顔を向ける。それがあまりにも普段と変わらなすぎて、あたしは心がざわついた。


「いつの間にか姿が見えなくなったから、少し心配しててん」


本当に?そんな言葉口をついて出てきそうになるのを、あたしはどうにか飲み込んだ。


「そう言えばさっきLINE送ったんだけど、見てくれた?」


「え、LINE?」


佳紀がスマホを取り出そうとズボンのポケットを探る。


「しまった、席においてきたみたいや。何か用だった?」


「あ、うん。このあと少し会いたいなって。三条の駅のあたりで待ち合わせできるかな」


「あ、ああ。待ち合わせはえぇんやけど……」


歯切れの悪い言い方だった。


「三条の駅じゃない方がええかな。多分、幹部とか去年のメンバーの一部で集まって、ちょっとした今日の振り返りをするやろうし。部室の方に来てくれた方が」


まただ、とあたしは思った。最近の佳紀はいつもそうだった。あたしのお願いを正面から断ったりはしないけど、やんわりと拒否してくる。


「……うん、分かった」


「ごめんな」


「ううん、全然」


言葉少なに答えると、あたしは佳紀の顔を見ないまま席へと戻った。



 トイレから戻るとさっきまで座っていた場所に、スマホが表向きに置かれているのが見えた。人にぶつからないように奥まで進んでいる途中、僕のスマホが震えた。通知のために画面が明るくなる。ちえり、と平仮名で送信者の名前が映った。


「ん?染井のか?」


滝がスマホに目を落とそうとするが、僕は間一髪手を伸ばして画面を隠した。


「スマホ忘れてたわ」


言い訳のように滝に話しかけながらスマホをズボンのポケットにねじ込んだ。内容は後で読むことにする。


「そういやさっき部長が来てたぜ」


「え、丹原さん?」


「そうそう。染井が戻ってきたら、今の所の入部確定者を後で送るように伝えてくれって言われた」


「ああ、そうなんや。サンキュ」


僕はスマホを取り出した。さっきのLINEは気になるけれど、とりあえずは既読をつけないまま、先に丹原さんからの用事を済ませることにした。


 メモ帳を呼び出して新歓用に作っていたリストを確認する。最初の新歓から参加してくれた人すべてをリスト化していて、入部宣言してくれた人は色を変えている。コピペでLINEに移すのは難しかったので、数人ごとに手打ちで入力していく。結城、明、植松、橘……。


『私、YUI choir入ります』


頭の中に数時間前のエリーの姿がフラッシュバックする。ここ最近はこんなことばかりだ。ふとした瞬間に彼女の顔ばかりが浮かんでくる。彼女を好きになってしまったのは、もう言い逃れようもなかった。


 9人分の名前を打ち終えてから、現時点での入部宣言者ですと一言付け加えて丹原さんにLINEを送った。


 時計を見るとそろそろ打ち上げも終わりの時間だった。


「では、みなさんそろそろお時間のほうが」


頭の中をぐるぐるするあれこれを追い出すように、僕は立ち上がって呼びかけた。



 あたしは溜め息をつく。あのあと『どれくらい時間かかる?』と追加でLINEを送った。こっちも既読はつかなかった。


 席に戻ったときには永井さんが寝落ちていた。


「やれやれ。悪い人じゃないんやけどねえ」


とヒナが呆れながら言う。


「そんで?このあと染井さんと会うん?」


「うん、少し会いたいって言ってきた」


「一人で悩んでるだけはしんどいからね。時には向き合うことも大事よ」


「そうだね」


佳紀があたしと向き合う気があるのなら、だけど。


「そうよ!」


あたしとヒナは同時にびくりと飛び上がる。寝ていると思っていた永井さんが急に目を覚ましていた。でも目はトロンとしていて明らかに酔っている。そのまま周りのものを倒してしまいそうだったので、あたしは手早く永井さんの近くにあったグラスや皿を片付けた。


「チーちゃん気が利くね、佳紀くんのいい奥さんになるよぅ」


ぽわぽわした声音で永井さんが言った。このタイミングで、とヒナが非難がましく睨みつける。いいのいいの、というつもりであたしはヒナの肩を叩いた。


「佳紀さん家事とかも自分で上手にこなしますから、私がいなくても大丈夫ですよ。あの人が出来ないのは、唯一片付けくらいなものですから」


「なに、佳紀くん片付け苦手なの」


「ええ。彼の家に行く度に私が掃除とか片付けとかしてます」


「へえ、誰にでも短所はあるもんねぇ」


あたしは自分でも驚くほど平坦に、永井さんに答えていた。


 それから間もなく打ち上げの終わりが宣言された。みんなでぞろぞろと店を出て、店先で部長が締めの挨拶をする。あとは多分、まっすぐ帰る人達と二次会をする人たちに別れていくはずだ。


「無理せんときや」


きっと言いたいことや気になることは山ほどあっただろうけど、ヒナは結局その一言だけに留めて、二次会組へと合流していった。


 あたしはそっと集団から離れながら、部室へ行こうと北へ向かって歩き始めた。けれど角を曲がって、ふと思った。ここで正直に部室に向かわず、はじめに言ったとおり三条で待っていたらどうなるだろう。あのとき感じた違和感の正体を、この目で確かめられるかもしれない。


 向きを変えて三条駅の方へ歩き始める。でも小道から出ようとして、待ち合わせのつもりの広場に二次会組がたむろしているのが見えた。さすがにあそこに突っ込むのは嫌だった。たまたま青だった交差点を、見つからないように急いで渡ると、あたしはさらに階段を下って鴨川の遊歩道に降りた。


 三条大橋のたもと。ここなら道行く人からも死角になるし、こんな時間に遊歩道を通る人もほとんどいない。しばらくここで待とう。


 暗がりに一人立っていると、さっきまでの嫌な想像が、いよいよ鮮明に頭に浮かんできた。もし今日、見るべきでなかった場面に遭遇して、それがきっかけで別れることになったら。


「本当に好きなんだよ」


誰も居ない夜闇の中に、呟いた言葉が溶けていく。涙が頬を伝った。


 誰かの足音が聞こえる。走り寄る音だった。こんな時間にランニングでもしているのだろうか。そう思って顔を上げると、そこには予想していなかった人物が立っていた。あたしは何が起きているのかわからなくなって、溢れた気持ちを抑えきれず怒鳴りつけてしまった。



 このままエリーに気持ちを伝えてしまって良いのだろうか。その迷いが晴れることはなかった。けれど、ここで思いを伝えないままでいるのも、もう無理だと分かっていた。本当はこのあと新歓隊長である僕は振り返りの会議に参加しなければいけないはずなのだが、アルコールで悪酔いしたことにして、今日はそのまま帰らせてもらえるよう先輩たちに伝えていた。


 罪悪感はあったけれど、このチャンスを逃したらいけないと思った。


 嘘をついた手前、みんなに見つからないように人混みに紛れながら約束した待ち合わせ場所を目指した。ところが交差点を渡る前に、地下道付近には二次会に繰り出す人たちがいるのが見えた。さっと目を走らせるが、エリーの姿は見えない。


 ここではまずいと思って、とっさにどこかに隠れたのかもしれない。だとしたら、この近くで人通りの少ない場所は……。


「鴨川か」


傍にあった階段を一足飛びに駆け下りる。遊歩道は灯りもなく薄暗かった。少し焦りながら小走りに辺りを探すけれどエリーは見当たらなかった。


 間違えたかな。そう思いながら三条大橋のたもとについたとき、ゆっくりと近づく気配に気がついて、僕は振り返った。


「遅いよ!佳紀」


「お待たせしました、佳紀さん」

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