第39話 神隠しのベール、沈黙の庭園にて。

 早朝に宿を出発して完璧に整備された街道を馬で走っていると、次第に建物が増えてきた。緩やかな丘から見下ろすと、辺境という言葉から感じる『王都から離れた鄙びた土地』という印象とは違い、王都にも引けを取らない街並みが眼下に広がっている。


 街の奥には巨大な黒い城塞がそびえ立ち、高い城壁が国境を区切っていた。遥か彼方まで続く壁の向こうは隣国。辺境伯はこの国境を守るため、王家と並ぶ強大な軍事力を保有している。もしも辺境伯がバルニエ公爵と秘密裏に同盟を結んだとすれば、内戦の危機が現実味を帯びてくる。


 王家による女神信仰を否定し、精霊信仰を主流にして魔力保持者を増やし、我が国を魔法王国として栄えさせるという計画は到底理解できるものではなく、阻止するべきもの。

 そもそも女神信仰のせいで魔力保持者が減ったとは思えない。魔力と神力は対立しておらず、共存できると王子の魔法と剣技が証明している。むしろ混ざり合うことで互いを補い、その人知を超えた不思議な力を増しているように思えた。

 私自身が強力な神力を得た今も、万能になったとは思えなかった。国の繁栄を目指すのなら魔力や神力に頼ることなく、お互いが協力することが一番の方法ではないだろうか。


 街道は街の大通りへと直接繋がっていた。馬の速度を落とし、街に近づくにつれて人や馬車の数が増えて賑やかさを増していく。

「ジュディット、左へ曲がるよ」

 王子に誘導されるまま、大通りから狭い路地へと馬を歩かせる。暗い路地をしばらく歩くと急に視界が開けて、眩しさに目を細める。


 明るい色のレンガで作られた建物は三階建て。広い庭と建物をぐるりと囲む優美な鉄格子にはつるバラが巻き付いて、美しいピンク色の花を咲かせている。花や葉が外からの視界を遮り、棘が侵入を遮る用途だと理解するまで数舜を要した。

「ここは楽団や吟遊詩人、芸術家たちが滞在する宿だ。通称は〝沈黙の庭園サイレントガーデン〟。ガヴィの紹介で、着替えて馬車を借りることになってる」

 着替えと言われて、改めて自分の姿を見ると確かに酷い。長時間の馬での移動は旅装マントを砂埃まみれにしていたし、服は汗を吸い、ブーツは泥だらけ。昨夜の宿で洗った髪も体もざらざらしている。この姿で辺境伯の城へ向かうことは流石にためらわれる。


「ガヴィ! お久しぶりー! 元気だったー?」

 二階の窓から、緩く編んだ褐色の長い髪の女性が身を乗り出して手を振っているのが見えた。深緑の簡素な意匠のワンピースからは女性らしい美しさが圧倒的に滲み出している。年の頃は三十半ばというところだろうか。

「お久しぶりです! お世話になります!」

 馬上でありながら、ガヴィは吟遊詩人特有の礼を女性へと向ける。女性はすぐに窓から消えた。

「あの方は宿の女主人シビルです。父の代から何度もこちらでお世話になっております。この周辺国の吟遊詩人は必ずと言っていいほど彼女を知っていますよ」

 笑顔で説明しながらガヴィは馬を建物の裏へと進め、私たちも従う。


 建物の裏には立派な厩舎が隠されていた。厩舎横の建物の扉が大きく開いていて、様々な用途の馬車が並んでいるのが見えた。現れた男性使用人に馬を預け、荷物を手にして宿の入口へと向かう。ドレスや着替えが入った大きなトランクを片手に下げ、小物が入った布袋を肩に掛ける。王子やガヴィが私の荷物を持とうとするのを断るのに若干の時間を有した。


「あら! ちょっと、何なの? 女の子の荷物くらい持ってやるのが男の優しさってものよ?」

 宿の玄関ホールに入った途端にシビルの声が響き渡り、男性たちがたじろぐ。

「お気遣いありがとうございます。私が断りました。荷物は自分が持てる量と決めております」

 私の言葉を聞いたシビルは、すぐに笑い出した。

「もー、何なの。昔の私と同じことを言うのねー。気に入ったわ。私はシビル。貴女のお名前をお聞きしてもいいかしら?」

 問われて名乗るとシビルは笑顔を驚きへと変えた。

「違っていたら申し訳ないけれど、伝説の騎士レオミュール侯のお嬢さん?」

「はい。父をご存じなのですか?」

「ええ。お父様が騎士をなさっていた頃、私の夫と友人だったのよ。しばらく疎遠になってしまっていたのだけれど」

 シビルの夫も元騎士だった。受爵を断り、この辺境の街へと移り住んでいる。今は仕事で不在らしい。


 早めの昼食の後、シビルは私だけを連れて三階にある彼女の私室へと招き入れた。淡いベージュの花柄の壁紙とクリーム色の家具が可愛らしく、あちこちに素朴な花が飾られている。

「この秘密の部屋にお招きするのは、夫の他には貴女だけよ」

 少女のように笑いながら、シビルは飾り棚に手を掛けた。何をするのかと見ていると、棚は扉のように開く。

「私、昔は旅芸人の一団で踊り子をしていたの」

 隠し部屋の中には全身を映す鏡。壁を埋め尽くす棚には煌びやかに輝く宝飾品やドレスが掛けられ、あちこちに美しい花が飾られている。施されたフリルや繊細なレース、リボンに心がときめく。

「本物の宝石もあるけれど、ほとんどはガラスで出来た偽物よ。もう着ないだろうと思っていても捨てられないのよねー。時々、昔を懐かしむための部屋なの」

 そう説明するシビルの声を聞きながら、私の視線は壁に飾られた長剣へと向かっていた。

「その剣は『剣の舞姫の物語』で使う物よ。持ってみてもいいわよ」

 シビルの了承を得て、長剣を掴むと軽すぎて驚いた。

「女でも片手に持てるように、木製なの。硬い木を剣の形にして色を塗っている」

 抜いてみると剣身は明らかに銀色が塗られただけとわかってしまう。落胆してしまった私の顔を見て、シビルが悪戯好きの精霊のような顔で笑う。


「これはね。こうして使うのよ」

 シビルは目の高さで水平に剣を右手で構え、左手で刃を撫でると神力の白い光が剣を包み込んでいく。シビルは慣れた手つきで光の剣を回し、空を切る。木剣とは思えない重厚な光の剣は見えない何かを斬り裂くようで、初めて見たはずの剣の軌道に既視感を覚えた。

「気が付いた? 剣捌きは貴女のお父様に習ったの。王城で披露した私の剣の舞姫を見て、剣の扱い方はそうじゃないって怒られたわ」

「そ、それは申し訳ありません……」

 いくら無類の武器好きとはいえ、まさか舞姫の剣の扱いにまで口を出しているとは思わなかった。脳裏に浮かんだ父の笑顔を殴り飛ばしながら謝罪する。


「いいのよ。お父様に習ったおかげで私の剣の舞姫は国一番と評判になったし、その時にお父様を止めに来た騎士が今の夫なの」

 シビルは頬を赤らめて昔を懐かしみながら笑っていても、ますますいたたまれない。

「あ! そうそう。私の思い出を語ってる場合じゃなかった!」

 そう言ってシビルは大きな衣装箱を開けて、白く繊細なレースで出来たベールを取り出した。

「辺境伯の夜会に行くのでしょう? 男性ばかりの宴で女性が参加するのはとても危険だわ。だから〝神隠しのベール〟を貴女にあげる。このベールを頭に被っていると存在感が消えるの。私が踊り子だった時、危ない時にはこれで切り抜けてきたのよ」

 シビルがさっとベールを自分の頭に掛けると、確かに存在感が消えた。そこに立っているのは木や花のような不思議な感覚。戸惑う間にシビルは移動していて、背後から肩を優しく指で叩かれて飛び上がる。


「使うことはないかもしれないけれど、動きやすい服も持っていって。この部屋にあるものなら、何を選んでもいいわよ。そうね……王子様をときめかせるような衣装はどうかしら」

 その言葉を聞いて、金色の子犬が喜ぶ様子が思い浮かんだ。一体、どんな服なら喜ばれるのかと考えかけて慌てて打ち消す。

「可愛い服は苦手なの?」

「大好きです」

 反射的に答えてしまった口を手で押えると、シビルは楽しそうな笑顔を見せた。 

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