第38話 精霊の祝福の酒、王子を酔わせる。
魔女の森の宿はこれまで泊まった宿の中でも一番と言っていいほど過ごしやすい部屋だった。心地よいゆったりとした時間を過ごし、体力と疲労回復に努めて十分な睡眠を取ると驚くほど体調が良くなった。
「ルシアン様、何か喜ばしいことでもありましたか?」
「えーっと。今日も天気が良さそうだなーって」
ガヴィの問い掛けに、王子が満面の笑みで答えている。穏やかな風が吹く青い空の下、馬を緩やかに歩かせながら、街道を進む。
昨夜は王子と二人きりになった途端に菓子を求められた。ジュリオやティエリー、ガヴィに目撃されたことを思い出して恥ずかしくなり、雑な餌付け状態になってしまったのは後悔している。それでも金色の子犬はキラキラと目を輝かせて喜んでいた。
私の愚行で、少しくらいは王子の傷心を慰めることができただろうか。私のような騎士とは違い、国を背負う王族の責務は重く人間関係は複雑だと痛感する。もっと優しく繊細な心配りができる女性の方が王子の心を慰められるのではないだろうか。そう考えた時、アリシア嬢の姿が思い浮かんだ。……がさつな私はアリシア嬢のようにはなれそうにない。ちくりと痛む心を隠し、手綱をしっかりと握って思考を散らす。
しばらく進むと豊かな実りを付ける果樹園が眼前に広がっていた。街道からは距離を開け、害獣除けの棘が付けられた木の柵で囲われている。
「街道を挟んで右側がブドウ、左側がイチジクだよ。ブドウはワインに加工されて、その搾りかすを肥料にしてイチジクを育てている。他の場所には無い栽培方法なんだけど、採れるイチジクはとてもふくよかな甘みがあって生でも美味しい。乾燥させると味が凝縮されてさらに複雑な甘みが増すんだ」
王子は過去に視察に訪れたことがあるらしい。収穫中だからなのか瑞々しいブドウの甘い香りが周囲に漂う。深緑色の葉が茂る果樹園の中では髪を白い三角巾で覆い隠し、白いエプロンを付けた女性たちが丁寧にブドウを収穫している。手にした籠はすぐにいっぱいになり、男性たちが大きな籠へと入れて、運んでいく。
「何か知りたいことはある? 僕が知ってることなら答えるよ」
王子に問われても特に何も思いつかない。それでも何かと考えながら口を開く。
「……そうですね……街道から近すぎるのではないでしょうか」
距離を開けているとはいっても、大人が十数歩歩けばブドウに手が届いてしまう。
「街道を通る者が喉を潤すために多少採る分は計算の内に入っているそうだよ。そのわずかな損失分よりも、街道近くにワイン工場を作って、出来上がったワインをすぐに届けることが重要らしい」
「この村の特産は生ワインなんだ。我が国で通常飲まれるワインは、ブドウの搾り汁を発酵させて熟成させた後、上澄みをろ過して加熱する。だけど生ワインはろ過も過熱もしないから日持ちがしない」
生ワインと聞いて、以前騎士仲間と飲んだことを思い出した。みずみずしいブドウの風味が爽やかで、とても飲みやすい口当たりだった。希少でなかなか手に入らない高価な酒だと騎士仲間が語っていた。
「十日程度しか味が保てないから、出来上がったら早馬で全国に運ばれるんだ。ワイン工場はこの果樹園の奥。この道の先にあるよ」
王子が指し示したのは、石畳の街道に交わる土の道。重い荷物を運ぶからなのか、しっかりと固められている。成程、一瞬でも早く運びたいということでこの立地なのか。
「普通のワインも美味しいと聞いているから、宿で飲もうか」
「はい。それはとても楽しみです」
辺境伯の領地は目前。その前に少しでも王子の気が晴れればいいと、私は微笑みを返した。
◆
かなり早い時間にたどり着いた宿は、とてもにぎわっていた。赤いレンガで出来た建物は一階が酒場、二階から五階が宿屋になっている。
部屋に荷物を置き、酒場に降りると騒がしくはあっても猥雑さはない。まだ日が高いからなのか、酒の酌をする女性たちの姿は無かった。広い店内には三十程度の丸テーブルが並び、それなりに客が酒を飲んでいる。
客は遠方から来たとおぼしき者が多く、外には遠距離移動用の馬車も数台停められていた。男性ばかりで女性客は一人もいない。
「半分くらいは辺境伯の夜会の招待客じゃないかな。ガヴィ、どう思う?」
「はい。そうだと思われます。見覚えのある商人の馬車もありましたので」
ガヴィが口にした名前は王都でも有名な商人だった。焼いた肉やチーズを食べ、ワインを酌み交わしながら談笑する男たちの会話に耳を向けると、商売の話が多い。
生ワインの時期には早く、熟成された昨年度のワインがテーブルに運ばれてきた。
「昔はワインは長持ちしなかったって聞いたよ。油断するとすぐに酸っぱくなってたんだって」
王子の説明の中、立ち上がったガヴィがワインを注ぐ手つきは儀礼的で面白い。五個の木のカップがテーブルの中央に円を描くように置かれ、少しずつ酒が注がれる。
「これは海の彼方の魔法王国コダルカでの伝統的な作法です。五人の場合は五芒星、六人の場合は六芒星を描く順番で酒を注ぎます。こうして酒好きな精霊たちに敬意を示し、共に酒を楽しむ」
「少人数の場合はどうするのですか?」
「カップの数を増やすだけで良いのです。最少は三。最大は七を一組として並べます。七は魔元素の最大数を元にしているそうです」
注がれる酒に、光の粒が煌めき始めた。
「……光が……」
「姿の見えない小さな精霊たちの魔力の光ですよ。精霊に供されて祝福された酒は、味がまろやかになって旨味が増します」
そうして注がれた酒を口にすると、これまで飲んだワインとは比べ物にならないとはっきりわかった。とにもかくにも美味しくて飲みやすい。カップ一杯の酒を果汁のように飲み干してしまいそうになる。
「お気をつけください。我々には見えませんが、どうやら大酒飲みの精霊が舞い降りているようです。こういった時には、とにもかくにも人に酒を飲ませようとします」
ガヴィが私に語り掛けている間に、王子は一杯を飲み干してしまっていた。ほわりと熱い息を吐いている。
「ワインって美味しいねー。前に視察に来た時には未成年だったから飲めなかったんだよねー」
王子のほわほわとした笑顔がさらに緩んでいて、これは嫌な予感がした。せめて人前で餌付けする失態は避けなければと、名残惜しいカップをテーブルに置く。
「味わって少しずつお飲みください」
酒の前に何か食べさせなければと慌てて料理を頼む横で、王子は二杯目を飲み干す。ガヴィの手から酒瓶を奪い取ってジュリオに手渡したのに、ティエリーが別の酒瓶で王子のカップに酒を注ぐ。
「お待ちください。そのように次々注がれては、酔ってしまわれます」
「ジュディット、僕は大丈夫だよー。この村のワイン飲むのを楽しみしてたんだー」
頬を紅潮させた王子は、今度はジュリオが注いだワインを飲み干す。どうやら三人は結託して王子を酔いつぶそうとしているらしい。
「酔いつぶしてどうされるおつもりです?」
「楽しそうなので」
理由ともいえない理由をティエリーが口にして、酒瓶を手にした三人が少年のように笑う。三対一の上に、当の王子が飲みたがっているのだから止めようがない。せめて私自身が酔わないようにと、私は料理に手を伸ばした。
◆
まだ夜にもならない時間、王子は完全に酔いつぶれていた。ティエリーとジュリオに部屋まで運ばれ、今はベッドに服のまま倒れこんでいる。
「ん-……ジュディットー……」
名前を呼ばれてどきりとしたのに、王子は笑いながら眠っている。そのほわほわとした笑顔につられて頬が緩むのは仕方ない。
「服……こんなところで……脱いじゃダメ……だよ……ジュ……ディット」
「は? 何をおっしゃっているのです?」
寝言とはいえ、どんな夢を見ているのかと想像してしまって頭に血が上っていく。これは叩き起こして止めなければと王子の肩に手を置いた時、唐突に思い出した。
それは最初の夜のこと。完全に酔った私は王子と手を繋いで街を歩き、王子の隠れ家へと着いた。王子が私に水を飲むようにと勧め、私は暑いと言って上着を脱ぎ、シャツのボタンを外した。慌てた顔をした王子がベッドで眠るようにと指示をして、私は自分で顔を洗いベッドに入った――。
あの夜、王子の手を先に握ったのは私。剣術者特有の手の硬さを確かめた。
『王子の手は、剣を持つ手なのですね』
『そうだよ。僕の剣はジュディットを護るために捧げるよ』
『私の剣はロザリーヌ様を護るために捧げています』
『それでも構わないよ。ロザリーヌを護るジュディットを僕が護るから』
大人びた表情を見せる少年の微笑みは凛々しく、胸がどきりと高鳴った私は、繋がれた手を笑顔で握り返した。
一瞬で駆け抜けていった記憶の衝撃は大きくて、後頭部をいきなり殴られたような気がする。どきどきとする自分の鼓動を感じて、視線が落ち着かない。
「ジュディット……あーん……」
今度は菓子を食べる夢なのだろうか。ほわほわとした笑顔で幸せそうな夢を見ている王子を起こすこともできない私は、そっと柔らかな金色の髪を撫でた。
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