第36話 迷子の子犬、魔女の森にて。
吟遊詩人が平民にも大人気だと知ったのは、翌朝のことだった。私たちが起床した時、ちょうど竪琴を抱えたガヴィが部屋へと戻ってきた。色とりどりの鳥の羽根が飾られた深緑色のつば広の帽子を見て〝
結局、ガヴィは明け方近くまで語ることを求められたらしい。客が一人も帰らなかったというのだから、一体どんな物語を語ったのか興味がある。
王子のねぎらいの言葉を受けた後、ガヴィは帽子と刺繍が施されたロングベストを鞄に仕舞い込み、旅装マントを手に取った。
「眠らなくても良いのですか?」
「朝まで語って移動することは慣れています。貴女の体調はいかがですか?」
微笑みながら私を気遣うガヴィの顔には疲労の欠片も感じられず、声にも張りがある。一晩中物語を語り、歌っていたとは思えなかった。
「皆様のお気遣いのおかげで良好です」
代替魔法を使わないように王子を説得してから、若干の疲労感は抜けない。それでも、王女の視察旅行の護衛よりも体力に余裕があった。やはり夜は早めに就寝することが一番の薬なのだろう。
荷物をまとめ、階下に降りると酒場のあちこちで眠る男たちの姿があった。どんな夢を見ているのか、寝顔が笑っている。
朝食の後、強面の酒場の店主がガヴィに小さな革袋を差し出した。
「昨夜のお礼です。どうかお受け取りを」
「これはこれは、ありがとうございます。飛び込みでも構わないのですか?」
ガヴィは中身を確認することなく、恭しく革袋を受け取った。飛び込みとは、店主に事前相談なしで歌や芸を酒場内で披露することらしい。
「ただの飛び込みなら客の祝儀だけのお渡しですが、貴方の歌は素晴らしい。できれば再び歌って頂けないかと願っております」
店主はその風貌に似合わず丁寧な言葉でガヴィに話しかけ、ガヴィも柔らかに応対している。
ガヴィが港町で歌い語った物語を思い出すと、何度も聞きたいと思う気持ちはよくわかる。吟遊詩人が持つ物語は多岐に渡り、一晩では歌い切れないだろう。
「また近くを通りがかった際には、寄らせていただきます」
ガヴィの言葉で店主はとても喜び、私たちは爽やかな気分で出発した。
◆
酒場の宿に預けていた馬の調子はとても良く、気を抜くと全速力に近い速度で走ってしまう。他の馬も同様で、皆と苦笑しながら速度を落とす。
「あの宿には、とても良い
ジュリオの言葉を受け、改めて馬の背を見る。丁寧にブラシを掛けられたのか馬の毛艶が良くなっているように感じる上に、金具や鞍が隅々まで磨かれている。これまでの宿では、これ程の気遣いがあったことはなかった。
馬を落ち着かせる為、歩かせることにして会話を楽しむ。石畳が敷かれた街道は完璧と言えないまでも整っていて、安心して進むことが出来る。
青空の下、爽やかな風が吹き、周囲には金色に輝く麦畑が広がっている。そろそろ収穫の時期を迎えるのだろう。我が国には不思議な土地が点在していて、ここでは作物の成長が早く、年に三回小麦が収穫できると聞いている。それは女神や精霊の加護と言われていた。
「この一帯で作物の育ちが早いのは、領主が領民にお金を与えて作物と肥料の改良を命じているからなんだ。もちろん女神や精霊の力もあるだろう。それでも、祈るだけではこれだけの成果は上げられなかったと思う」
金色に輝く小麦畑が風で波立ち、王族の凛々しい表情を見せる王子の金色の髪がふわりと揺れる。少年のような可愛らしい表情と、未来を見据える大人びた表情と。どちらも好ましいと感じる私の心に気が付いて、心を殴りつけて押さえつける。
魔物の件が片付いたら、私は王子を裏切り逃げることになる。王子の成長を見届けることはない。服の
「ジュディット、疲れた?」
「いいえ。疲れてはおりません。お気遣い下さりありがとうございます」
王子の気遣いが心をふわりと温めると同時に、頭が冷えていく。いつの間にか強く手綱を握りしめていた手から力を抜き、静かに深く息を吸う。
「この調子で行けば、明後日の夕方には辺境伯の領地に入る。夜会まで四日あるから、宿屋でゆっくり過ごそう」
その言葉を聞いて、私たちの旅程がいかに無謀だったかを思い知る。馬車で二十日以上かかる道のりを、騎馬とはいえどもたった八日程度で駆けたことになる。
「伝令の早馬なら、もっと早いですよ。この程度なら少々急いだというところでしょう」
私の驚きが顔に出てしまっていたのか、振り返ったティエリーが微笑む。昨夜の暴走を見ても私が一切怯まないのを知ってから、ティエリーの表情が明るくなったように感じるのは気のせいか。
「おや。ルシアン様、もうすぐ昼食ですよ」
「……お腹が減ってる訳じゃないよ……」
ティエリーのからかうような言葉の先、王子の表情を見ると口を引き結んで拗ねている。先程の凛々しい顔はどこへ行ってしまったのかと思いながらも、可愛らしくて頬が緩んだ。
◆
街道沿いに比較的大きな建物が二十数件立ち並んでいた。都市や街というには小さく、村というには建物が二階建て以上で立派過ぎる。そもそも建物の背後には鬱蒼と茂る森が広がっていて、これまで見たことのない光景に目が奪われる。
「ここは〝魔女の森〟と言われる場所なんだ」
近づいてみると魔女というイメージからは程遠く、王都にあっても不思議のない整然とした店が続いている。窓の中に見える店員は女性が多く、皆一様に赤い口紅を塗っているのが目を引く。彼女たちが魔女なのだろうか。
建物に下がる看板を見ると、薬屋に魔道具屋、菓子屋が目立つ。客はそれなりにいて、どうやら繁盛しているらしい。
「ここでは男が魔女の不興を買うと、裏の森で体をばらばらにされて魔法薬の材料になるっていう噂があるんだ。だから男は女性を怒らせないようにと注意しなくちゃならない」
そう言われると、日が落ちる中で陰を増す森が恐ろしい物に見えてくるから不思議。
〝魔女の森〟の端に建つ宿屋は、とても居心地よく整えられた部屋が揃っていた。素朴な家具や床は埃一つなく清掃されて磨かれていて、テーブルには白地に見事な刺繍が施された布が掛けられ、クッションやシーツに至るまで精緻な刺繍が美しい。案内してくれた女性店員によると、気に入った物があれば同様の新品を購入することもできるらしい。
「ここはね、夫や家族から逃げて来た女性の為の場所なんだ」
店員が部屋を出た後、二人きりになると王子がそっと静かに口を開いた。
「残念だけど、妻や娘を奴隷のように扱う者がいる。ここへ逃げて来た女性たちは、刺繍や菓子作りといった技術を習得して生計を立てているんだけど、実はこの場所に魔女は一人もいない。〝魔女の森〟という仰々しい名前を付けて、恐ろしい噂を流してこの場所を護っているのは辺境伯だ」
その話を聞いて、王子を誘拐しようとする行為と女性たちを護ろうとする行為の二面性に疑問が生じる。
「……辺境伯は厳しい人だけど、優しい人でもある。だから、僕の誘拐にも何が理由があるのかもしれない。何を考えているのか直接聞いてみたい」
辺境伯を信じたいと思う心と疑う心の狭間で、迷子になった金色の子犬のような表情が胸に刺さった。
私は慰める言葉を持ってはいない。それは王子と辺境伯の間でしか解決しない。
「……王子、菓子を買いに行きませんか?」
「菓子?」
「ええ。もしかしたら、お好みの物がみつかるかもしれませんし、そろそろ豆菓子が尽きます」
私が微笑むと、王子が目を輝かせた。ぱたぱたとしっぽを振る金色の子犬の幻影が見える。
「じゃあ、ジュディットが食べさせてくれる?」
きらきらと期待に満ちた視線の圧力に内心怯みつつ、私に出来ることはこれくらいしか思いつかない。
「は、はい」
「絶対に約束だよ! 行こう!」
王子に手を引かれ、私たちは菓子を求めて部屋を出た。
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