第35話 酒場の乱闘、吟遊詩人の歌に鎮まる。

 早朝から馬を全力で走らせて夕方には宿へとたどり着くを繰り返し、当初予定よりも移動距離をかなり稼いでいると説明を受けた。

 六日目の宿は、街道沿いに建つ酒場の二階。一階を占める酒場は広く、十人掛けのカウンターテーブルの他、四人用テーブルがずらりと壁際に並び、中央にはテーブルはなく広々とした床が目立つ。

 木で出来た床や素朴なテーブル、椅子には多数の修繕の跡。白い土で塗られた壁のあちこちには凹みがあり、平民の宿にありがちな吊り下げ式や壁掛け式の魔法灯はなく、すべて天井に埋め込まれている。

「何か気になる点でも?」

 天井に視線を向けているとティエリーが笑顔で話し掛けてきた。この数日でティエリーの女性慣れした気遣いの柔らかさに何度か助けられた。男性には説明しにくい感情をくみ取ってくれるのがありがたい。何かと王子と私をからかう言動が無ければ素直に感謝できるのに。

「天井への埋め込み式の魔法灯は珍しいと思っていました」

「そうですね。貴族の屋敷でもなかなか見ない設備ですが、こういった酒場ではよくあります」

「それは知りませんでした」

 私がティエリーと話していると王子の視線を感じる。どうにかして会話に入ろうと見計らっているのがわかり過ぎて微笑ましい。下手に入るとティエリーのからかいに合うのに。


 席に着くと同時に数本の酒瓶と木のカップがテーブルに置かれ、ガヴィとティエリーが慣れた様子で店員に料理を注文していく。この数日で理解したのは、店側は客がどの程度金を持っているかを判断して、料理や酒の種類を変えるということ。これは平民の料理屋や宿屋に限らず、貴族向けの商人でも同じらしい。上客になると思うと、質の良い物を出してくる。

 王女と離れてから、私は様々な世界の姿を見ている。まだ私の知らない世界があるのかと思うと心が躍る。将来、隣国の王妃になる王女は、きっと私とは違った世界を見ていくのだろう。厳しい世界を覗き見ることがあっても、王女の見る世界が多くの希望の光に満ちたものであって欲しいと切に願う。


 私たちが食事を始めた頃には数名しかいなかった客が、食べ終わる頃にはすべての席を埋め尽くしていた。旅人だけでなく、見るからに荒くれ者の姿も多い。他の客に席を譲る為に食後の酒を断って立ち上がった時、筋骨隆々とした背の高い茶髪の男が近づいてきた。

 男は近くにいたジュリオを避け、ティエリーに肩をぶつけようとして避けられたにも関わらず声を荒げた。

「おい、お前! ぶつかっておいて謝りもしねーのかよ!」

「私は避けたよ。君の気のせいじゃないかな」

 柔らかに微笑むティエリーの言葉に、何故か周囲の客が手を打ち、口笛を吹いて盛り上がる。

「俺がぶつかったって言ってんだから、ぶつかったんだよ! 女みたいなツラしやがって俺を舐めんな!」

 叫びながら殴りかかって来た男の拳を、ティエリーが手のひらで止めた。男は明らかに全力だったのに、ティエリーの顔色は変わらず余裕の笑みさえ浮かべている。その顔を見て、男がさらに激昂したのがわかった。


「……仕方ないな。一応、手加減してあげよう」

 そう言いながら、細身のティエリーがまとう空気がゆらりと揺れるのがはっきりと見えた。その拳を受け止められたままの男の顔が緊張したかと思うと、男の体が宙に浮く。

「え?」

 凝視していたのに何が起きたのかわからなかった。男は風に吹かれて舞う落ち葉の様に回転して、部屋の中央の床へと叩きつけられた。

「ぐあああああああ!」

 床でのたうち回る男へ優雅な仕草で歩き寄ったティエリーは、男の顔面を片手で掴んでその巨体を持ち上げた。周囲の客は増々歓声を上げ、ジュリオが溜息を吐き、王子とガヴィが苦笑する。

「ほら、男なら立てよ。立たない男は役立たずだぜ?」

 ティエリーは親切にも男を立ち上がらせて、顔面から手を離す。顔を真っ赤にした男は再び殴りかかり、またもやティエリーの片手で受けとめられた。

「殴るしかできないのか? つまらない男だな。閨で女に飽きられてるだろ」

 ティエリーの挑発を受け、男は右足を振り上げたものの避けられた。何度も蹴ろうと試みるも、ティエリーは軽やかにかわすのみで男の無様な姿が際立つ。

 今やティエリーと男の喧嘩は見世物状態になっていた。周囲の客たちは酒を飲みながら歓声を上げ、どちらが勝つか賭けまでが始まっている。あきらかにティエリーが手加減しているのがわかるし、止める理由も思いつかない。

『冷静ですね。もしかして喧嘩を見慣れていらっしゃいますか』

 ガヴィの苦笑交じりの声に頷く。

『ええ。騎士の喧嘩の方が危険です』

 何と言っても騎士には剣がある。理由なく抜剣ばっけんすれば咎められるとわかっていても、酒が入っている時には理性が飛んでいる。


 息を切らした男が、近くのテーブルから酒瓶を奪い取ってティエリーに襲い掛かる。振り下ろされる酒瓶を腕で受けると、瓶が割れて赤い色の酒がティエリーの金褐色の髪と顔に掛かった。

「……ざまあみろ! ……あ?」

 一瞬だけ勝ち誇った表情をした男の顔が、みるみるうちに青ざめていく。一体何がと思う間もなくティエリーは男の顔面を片手で掴み、そのまま客のいるテーブルへと突き進む。

「ざけんなああああああああ!」

 魔物のような咆哮を上げたティエリーは男の身体でテーブルと客を薙ぎ払い、ついには壁へ男の頭をめり込ませた。男は完全に気を失い、壁からぶら下がる。

「あー。やっちゃったー」

 王子の苦笑と同時に、酒場全体に乱闘が広がった。もはや誰が何が原因という理由は全く無意味になり、酔った客同士が殴り合う。


 突然背後から肩を掴まれて見知らぬ男に顔を殴られそうになった時、王子の手が男の拳を止めた。

「……あ……」

 驚いて動けない私を背に回し、王子は男を殴り飛ばす。男はテーブルにあった料理や酒を巻き込んで、壁へと激突した。

「……ありがとうございます」

「ん。大丈夫なら良かった」

 ほわりとした王子の笑顔は一瞬。私たちの周囲も見境の無い乱闘が巻き起こっている。王子と背中合わせになって、殴りかかってくる男たちを殴り倒す。ジュリオは魔物のように暴れ回るティエリーを捕獲する為に対峙している。

 酒瓶だけでなく椅子を振り回す客もいて、ふと魔法灯が天井に埋め込まれている理由がわかった。こういった乱闘が起きた時、魔法灯が壊されないようにする為か。


 もはや誰も止められない乱闘の熱気の中、突如として竪琴がかき鳴らされた。その激しい音色に誰もが動きを止めて注目する。

 酒場の中央で、竪琴を奏でるのはガヴィ。色とりどりの羽根が着けられた深緑色のつば広の帽子を被り、生成のシャツに黒いズボン。帽子と同色のロングベストの裾には華やかな花々の刺繍が施されている。先程から姿が見えなかったのは、部屋に竪琴を取りに行っていたのだろう。

「――戦いは終焉の時を迎え、祝宴へと移るのは世の常。大空を飛ぶ鳥たちが地上の木々に降り立ち、その翼を一時休めるごとく、どうか皆様も席におつき下さい」

 酒場に響くガヴィの声と竪琴の音色に魅了されたように、客たちは争いをやめて倒れた椅子を起こして座る。酒場の店員らしき者たちが、倒れたままの客をそっと静かに運び出していく。中にはあちこちから血を流しながらも、どうしても吟遊詩人の歌を聞きたいから残ると言い張る客もいる。

『後はガヴィに任せて、僕たちは部屋に戻ろう』

 王子の囁きに頷いて階段へと向かうと、背後からガヴィの声が聞えてきた。

「それでは、今宵の物語を始めましょう――」

 物語を聞きたいと後ろ髪を引かれながら、私は部屋へと戻った。


      ◆


 この宿にも旅人集団の為に作られた部屋があった。中央の居間を取り囲むように小さな寝室が作られていて、居間には四人掛けテーブルと椅子、四つの寝室はベッドが一つぎりぎり入る広さ。

 王子が浴室を使っている間、居間ではティエリーが椅子に座って項垂れていた。

「女性にお見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳ありません」

「いえ。謝る必要はありません。あの男が悪いのです」

 ティエリーのシャツは赤黒く染まっていて、血の汚れとは異なっていても色が似ているのでどきりとする。

「私の常軌を逸した姿を見ても驚かないのですか?」

「父で見慣れております」

 私の父も本気を出した時、魔物のような咆哮をするので騎士仲間からは恐れられていた。その動きも常とは違う速さになり、放つ殺気だけで相手の動きを止めてしまう。先程のティエリーも同じような殺気を放っていた。酔って理性を失った者なら動けても、理性を持った者なら震えあがるだろう。

「女性と子供には絶対に害を与えませんので、その点だけは安心して下さい。……血が苦手なのです。他人の血ではなく、自分の血が」

 ティエリーは溜息を吐きながら、再び項垂れる。

「女子供に害が無いのなら安心しました。誰でも苦手な物はあります。恥じる事はありません」

 ティエリーも父と同じで女子供には害を与えないと知って心からほっとした。父は剣の訓練の時には厳しくても、いつも優しい人だった。父と共通する何かがあると思うと、親近感すら湧いてくる。

「…………一生、王子と貴女にお仕えすると誓います」

 顔を上げて微笑んだティエリーは、椅子に座る私に跪いて誓いを立てた。

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