第16話 本物の地図、平民の宿にて。
魔鳥は跡形もなく消え去った。気のせいではなく空気が澄み、枯れ木は緑の葉を茂らせた大木に変わっている。
「ありがとう、ジュディット」
「私の功績ではありません。この〝華嵐の剣〟と貴方の剣技のお陰です」
白い光を帯びていた剣は沈黙し、久しぶりに剣で戦った高揚感が胸を高鳴らせる。
王子の剣技は素晴らしいとしかいいようがなかった。手を握りながらも私の動きを邪魔することなく、それでいて私よりも数多く魔鳥を仕留めていた。特殊条件でこれだけ戦えるのだから、王子の通常の剣技に興味が出てきた。
「えーっとそうじゃなくて、僕はジュディットの神力を分けてもらってたんだ。魔物や呪物には魔力で対抗するよりも神力の方が効果があるからね」
「そうだったのですか?」
全く気が付かなかった。だから王子の剣も白く輝いていたのか。
「この神力は〝華嵐の剣〟による物です。どうぞご自由にお使い下さい」
自分の力でないことはわかっている。それでも王子の役に立てるのなら。
苦笑した王子の手が私の手を強く握り、視線を周囲の麦畑へと向けた。
「……さっきの魔鳥を、僕は見る事ができなかった。小麦や作物が収穫できない原因があの魔鳥だとしたら、気が付かなかったのは仕方なかったとはいえ悔しいな」
「何故、私には見えたのでしょうか」
「〝華嵐の剣〟の効果……かな? ジュディットが元々持っていた神力を増幅してると思う」
「この剣が私の神力を増幅するのは、剣を抜いた時だけと思っていました」
「……そうだね。剣を抜くとジュディットの神力はとても強力に感じる。剣を持っている状況では、外部からは全くわからないけど、こうして手を繋いでいると時々神力の高まりを感じるよ」
「そ、それはどういった時でしょうか」
「一瞬だし、規則性はないかな。魔力や神力が増えていく過程の一種と本で読んだことがある」
繋がれていない手を見つめても、何も変わった所はない。私の神力は花のつぼみを咲かせる程度しかなかったし、周囲にも神力で奇跡を起こせる者はいなかった。
「ジュディット、少し神力を分けてくれるかな」
「はい。剣を抜いた方がよろしいでしょうか」
「ありがとう。そこまでは必要ないよ」
王子がシャツの二つ目のボタンを引きちぎり、噛み砕く。その手に赤い炎が宿った。
「この周辺の畑に魔鳥がいないか探索魔法を発動させる。神力を加えれば、見落とすこともないだろう」
赤い炎が光の魔法陣へと変化して魔法陣をなぞるように白い光が駆け抜ける。王子は目を閉じ、神経を集中させていた。手を繋がれたままの私は、邪魔をしないようにと息を殺す。
しばらくして目を開いた王子が息を吐き、魔法陣をその手に納めた。
「この辺りの魔鳥は消えたみたいだから、馬車に戻ろうか。そろそろ皆も食事を終えているかな」
食事の後の散歩は、麦畑の状況確認だけでなく御者や従者の食事の為だったらしい。ふとした違和感に目を留めると王子のシャツが胸まで開いていて、露出した肌にどきりとする。
騎士の訓練で男性の裸は何度も見ているし慣れている。先日は治療の為にシャツを脱いだ姿も見た。シャツの隙間から肌が見えるだけで恥ずかしいと思う理由がわからない。
「何か聞きたいことがあったら、言っていいよ」
「……あ、あの、そのシャツのボタンは一体……」
王子の胸元を見ていたことに気が付いて盛大に慌てる。とにかく何か言葉を紡がなければと、ボタンのことを口にした。
「ああ、このボタンか。このシャツのボタンには圧縮した魔法陣を刻み込んでるんだ。ボタンを割ると魔法陣が解放される。千年生きる伝説の魔術師なら魔法陣や呪文詠唱なしで魔法を発動させることができるけど、僕はそこまでの技量はまだないからね。咄嗟に魔法を使う為に、こうして魔法陣を用意してるんだ。指で潰してもいいんだけど、かみ砕くのが一番早い。精霊の力を召喚する魔法陣だから汎用性は高いよ」
「……お召しになっているシャツのボタンすべてに魔法陣が刻まれているのですか?」
「ほとんど全部かな。悪用されることはないよ。これは僕自身で作った僕自身の為の操者限定魔法陣だから、他の誰かが使うことはできない。……そうか。これからジュディットも使えるように魔術構築してみようかな」
「いえ。必要ありません」
私が魔法を使う必要があるとは思えない。即答すると王子がしょんぼりとした金色の子犬のような雰囲気になってしまった。……可愛いと思っては負け。毅然とした態度で臨みたい。
王子に手をひかれ、馬車へ向かって歩き出す。
「ジュディット、城に帰る前にいくつか寄り道をしたいんだけど、いいかな?」
「はい」
「この街道沿いに原因不明の不作が続いている村が他にもあるんだ」
「魔鳥はまだ存在しているということですか?」
「ああ。たった数十羽で、あちこちの広大な畑を荒らしていたとは思えない。もっと数はいると思う」
「この魔鳥の発生原因は何なのでしょうか」
根本を叩かなければ解決できないように思える。王女の時は魔鳥に死の呪いが掛けられていて、王家に恨みを持っていた犯人の魔術師は捕らえられて処刑されている。
「……三十年前、古い石塔に封じ込められていた魔物を解き放った者がいる。その人物は、どうやらその魔物に供物を捧げて自分の望みを叶えているらしいと予想はしていた。……これまではどうやって手を下していたのか全くわからなかったんだ。何しろ僕も兄も誰も見えなかったからね。でも、その姿の一部が見えた」
「魔鳥を使っているのなら、防ぐ方法もある。ただ闇雲に原因や対処方法を探すよりは解決への道が開けた」
王子の横顔は、人の上に立つ王族の凛々しさを湛えている。国と国民の為、自らが危険を冒す姿勢には心を打たれる。主として騎士として仕えることができるのなら、いつまでも隣にいたい。
「これから危険はあるかもしれないけど、ジュディットは必ず護るから安心して」
一転してほわほわとした柔らかな笑顔がこちらに向いた。不意打ちすぎて、どきりと胸が高鳴る。
私は王子を護ると、言葉を返すことはできなかった。
◆
夜が近くなり、町の比較的大きな宿屋へとたどり着いたものの、決して王族が泊って良い場所ではなかった。一階は酒場と賭博場、二階は売春宿、三階が宿という恐ろしく猥雑で賑やかな光景が目の前に広がっている。
「こ、こ、ここですか?」
「そうだよ。こういう兼業の宿屋は割と多いんだって。僕は宿しか使ったことないけどね」
騎士仲間と訪れた酒場は、ここまで乱れてはいなかった。酒と女性が男たちの間を行き交って、目のやり場がなくて困惑するのみ。
別の店で夕食を済ませていた私たちは、一階で代金を支払って三階へと案内された。当たり前のように王子と私は同じ部屋。
「あ、あの……」
「何もしないから大丈夫」
ほわほわと笑う王子は、自ら部屋の確認をし始めた。そうだった。貴人が入る前に部屋を調べるのは騎士の仕事と思い出し、私も確認作業に入る。王子の護衛だと思えば恥ずかしく感じることもない。
窓や出入り口を開閉し、家具やその他に魔法や何らかの術が掛けられていないか確認する。大人三人は眠れる大きさのベッドとテーブルセットが置かれた部屋に、浴室と手洗いのみの狭い部屋。手入れは行き届いているようで、シーツや枕カバーは綺麗に整っている。
「大丈夫そうだね。先に浴室を使っていいよ」
「はい」
浴室は狭く、水しか出ないシャワーに閉口しながら髪と体を洗い、騎士の頃から愛用している夜着を身に着ける。裾の長い上着とゆったりとしたズボンなら、女性用の無防備な夜着とは違って安心できる。
浴室から出ると、王子は椅子に腰かけてテーブルに広げた地図を眺めていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「もっとゆっくりしてもいいのに」
ゆっくりしたくても、水では無理。まさかお湯が出ない宿があるとは思わなかった。
近づいてきた王子が、私が手にしていた
「動かないで。髪を乾かすから」
それは本当に一瞬の出来事。赤い光の煌めきと温かい風を感じた直後、髪とタオルが乾いた。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
ほわほわと笑って耳を赤くした王子は、浴室へと向かった。
広げたままの地図を見ると、我が国の地図だった。ただ、私たちがいつも使っている地図とは細部が異なっていて驚く。
道がない場所に道が描かれ、沼地であり難所といわれて誰も近づかない場所に沼はない。記憶している地図とは少しだけ違って興味深い。
椅子に座って地図を眺めていると、浴室の扉が開いた。王子は真新しいシャツと黒いズボン姿。これからどこかに出掛けるのだろうか。
「お出かけですか?」
「違うよ。……えーっと、その……平民の宿では何が起きるかわからないから、僕はいつも服のまま寝てるんだ」
そう言われてはっとする。呑気に夜着を着ている状況ではなかった。
「私も着替えます」
「いいよ。そのままで。……ああ、地図を見てたのか」
立ち上がって浴室へ向かおうとして止められ、椅子へと戻される。後ろから肩に置かれた手にどきどきしてしまう。
「私が記憶している地図と異なるのですが、何故でしょうか」
「これは王族だけが持つ本物の地図だよ。精霊に手伝ってもらって作った正確なものだ。正確な地図というのは、敵対する者の手に渡ると悪用されてしまう。だから、偽の地図を作って広めてるんだ」
私の肩越しに王子が地図を覗き込み、耳元での囁きが背筋を走り抜けていく。高鳴る心臓は止められず、ただ地図をまっすぐに見つめるだけ。
「そろそろ眠ろうか。朝も早いし」
「はい。私はこちらで」
椅子に座って眠るつもりだったのに、王子は私の手を引いて立ち上がらせた。
「何もしないと約束する。それに……これからジュディットにお願いすることが多くなるから、体調は万全でいて欲しい。だからベッドで眠って」
真剣な眼差して言われては拒否することも出来ない。
迷うことも許されないまま手を引かれ、私は王子と共にベッドに入った。
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