第5話 医術師と魔術師、港町にて。

 岩を掴む王子の腕は限界を迎えようとしているのかもしれない。それなのに、私の腕を掴む手は緩まない。海からの強い風が、私の体を揺らす。


「……ジュディット……僕の腕を……両手で掴んでくれないか」

 私を助ける為に必死な表情を見てしまっては拒否することはできなかった。下げたままだった手を上げ、王子の腕を掴む。


 私を片腕に吊るしたまま、王子は片手と脚を使って崖を登る。人間一人の重量を支えての無謀な行為を強いているのは自分だと胸が痛む。


 王子は私を崖の上に押し上げると、大きく息を吐いた。その安堵の息が諦めのように聞こえて、慌てて王子の腕を掴んで引き上げる。

「あ…‥りが……と…‥」

 疲労困憊した王子が地面へと転がって仰向けになった。無傷の私は、王子の体のあちこちに滲む血をハンカチで押さえることしかできずに罪悪感に包まれる。


「ジュディット……膝を……貸して……欲しい……な」

 乱れたままの苦しい息で懇願されれば、承諾するしかない。地面に座って王子の頭を膝へ乗せた。


「……王子……私は……」

 貴方を殺そうとしました。告白の唇は、王子の指で止められた。

「……それ以上は……禁止。……少し……眠って……いいかな」

 王子は私の殺意に気が付いている。それなのに、私を助けた。


 目を閉じて、寝息を立て始めた王子の頭を膝の上に乗せたまま、私は途方に暮れるしかなかった。


      ◆


 王子はすぐに目覚めた。

「今日も鍛冶屋に行くつもりだったんだけど、明日に変更していいかな」

 ふらつく体で立ち上がり、座り込んだ私に手を伸ばして優しく微笑む。先程のことは何でもなかったかのように振る舞う王子に戸惑いながら、差し出された手を取って立ち上がる。 


「も、申し訳あ……」

「それも禁止」

 謝罪の言葉も、王子の指が止めてしまった。どうすれば正解なのかわからないまま、傷だらけの王子を支えて馬車に戻ると御者も従僕も慌てふためいた。


「大丈夫だ。ガストンの所へ向かってくれ」

 ガストンという名を聞いて、御者も従僕もすぐに馬車を出発させた。地面が石畳に替わると、馬車が速度を上げて港町を駆け抜けていく。


 隣に座る王子は私に寄り掛かり目を閉じている。自身を殺そうとした私を助けて許し、体を預ける。その温もりが心に痛い。


 王子の横顔を見つめていると、青い瞳が開いた。唇が優しく弧を描く。

「……ジュディット、何か質問したいって顔してるよ。何でも自由に聞いてくれていいよ」

 どうして私を許すのか。……その答えは聞いてはいけないと思う。咄嗟に思いついた質問を口にした。


「魔法が使えないというのは、どういうことですか?」

「昨日の夜、転移魔法で王城まで行ってたんだ。忘れ物をして……二往復は、流石にきつい。僕は転移魔法が苦手で大量に魔力を使うから、ほとんど残ってない」

 昨日は真夜中過ぎまで私と一緒に本を読んでいた。その後と考えると、睡眠時間はあっただろうか。


「それでは、眠っていらっしゃらないのですか?」

「あー、えーっと……実は、そうなんだ」

 気まずい顔をした王子の目が泳ぎ、私の罪悪感がさらに増す。


「どうかお眠り下さい」

「ありがとう。でも、もうすぐ着くよ」

 

 王子の言葉通りに広い港町の一角、喧騒から隔離された静かな場所で馬車が停まった。白い石で作られた建物が光を反射して眩しい。


 医術院と紹介された建物内部は白と柔らかな淡い橙色で統一されていて、温かみを感じる。白い上下を着た見習い医術師の案内で診察室へと通された。


 待たされることもなく、すぐに現れたガストンと名乗る医術師は鉄紺色の長髪を一つ結びにした痩身の男。私よりも少し年上に見える。

「何回目ですか。本当に」

 ガストンの呆れたような一言に引っ掛かった。崖から落ちて怪我をするのが、これが初めてではないということなのか。王子が苦笑しながらシャツを脱いで診察用の丸椅子へと座る。


 王子の体は、細身でありながらしっかりとした筋肉質。おそらくは鋭い岩や植物での切り傷と擦り傷、打撲の跡が酷い。

 

「おや。今日は切り傷よりも擦り傷と打撲が多い。それにしても、逢引きデートで張り切り過ぎたなんて情けないですねぇ。まぁ、お嬢さんには怪我はないようで何よりです」

 ガストンのひと言で気が付いた。王子がこれだけの傷を負っているのに、私が全く無傷であることに違和感を覚える。


「もっと自分を大事にしてくださいよ」

 大袈裟に溜息を吐きながら、ガストンは王子の傷に薬を塗っていく。


「いたたた……も、もうちょっと優しくしてよ」

「それなら、残りはそちらのお嬢さんに塗ってもらいますか?」

「そ、それは……」

 王子が耳を赤くして言い淀む。私でもいいのならと言いかけて、すでに上半身の傷には薬が塗られているのが見て取れた。残るはズボンの下、下半身の傷。


「ジュ、ジュディット、えーっと、は、恥ずかしいから後ろを向いていて欲しいな……」

 何故と聞くまでもなく、背中を向ける。私自身は他の騎士の傷を見慣れているからどうとは思わないのに、恥ずかしいと言われると恥ずかしくなってくるから不思議。


「おやおや。貴方のそんな表情は初めて見ますよ。いつものように言い返してこないのですか?」

「そ……その……」

 ガストンのからかうような声に、王子の言葉は歯切れが悪い。衣擦れの音の後、ガストンが息を飲んだ。


「……この足で、よく歩けましたね。相当痛むでしょう?」

 我慢できずに振り向くと、下穿き姿の王子の左脛には赤黒い打撲傷。傷は見慣れているし、自分自身も王女を庇って怪我をしたこともある。腫れた状態から見ても、かなり痛む傷のはず。


「それは……」

「ジュディット、手を」

 王子の前で跪こうとした私を止めて、王子は私の手を求めてきた。差し出した私の左手を頬にあてて王子が何かを呟くと〝王子妃の指輪〟から冷やりとした空気が溢れる。


「ちょっとだけ魔力を返してもらってる。後で補給するから心配しなくていいよ」

「この指輪をお返しした方がいいのではないでしょうか」

 指輪は王族の魔力で出来ていると聞いている。魔力で形作られた物なら、その魔力を消費すれば形が保てずに消えるのではないだろうかと思いつく。  


「これはもう、ジュディットの物だよ」

 笑いながらも、時々顔をしかめながら足の傷を手当されている光景を見てしまっては、もう言葉はでない。どうしてと聞けば、後戻りできなくなるとわかっているから、口にはできない。


 足の傷に薬が塗られ、一番酷い打撲傷には白く硬い板があてられて包帯が巻かれた。

「この傷は骨にまで達しています。通常なら一月は安静にして欲しい所ですが、無理でしょうから魔法薬を取り寄せます」

 ちょうど該当する薬を切らしているとガストンは謝罪した。


「ユベールの薬かな? それなら、これから行ってくるよ」

 王子の言葉に応じてガストンは薬の名前を紙に書いて手渡す。立ち上がった王子を手伝って支え、他愛のない話をしながら玄関まで出た所で、ガストンが私に話し掛けた。


「ところでお嬢さん、後でこの馬鹿を叱っておいてくださいよ。代替魔法で貴女の身代わりにな……」

「おい! ガストン!」

 顔色を変えた王子がガストンの声を遮って、私は自分が無傷の理由を知った。


「私の……身代わり……?」

 崖に落ちる一瞬で代替魔法を掛けたから、他の魔法が使えなかったのだろうか。


「どんな理由があるのかは知りませんが、お相手に何も話しておかないのはおすすめしませんよ。万が一の時は、何も知らないままに取り残されるんです。後から真実を知る方が後悔は深くなるんですよ」

 真剣な表情のガストンに、王子は何も言い返せずに馬車に乗り込んだ。


      ◆


 走り出した馬車の中、王子が何かを言いかけてはやめる。騎士としては貴人が話すのを待つべきと思っても、我慢できなかった。

「王子、代替魔法というのは‥‥…」

「……残り少ない魔力でジュディットを確実に助ける方法を選んだだけだよ」

「そんな……」


「緊急時の魔法だから、今は解除してるよ。本来は父王や兄王子の身代わりになる為に習得した魔法だ。我が国の第二王子以降は、王と世継ぎの王子の為の命の器。……ガストンの母君は、前代の第三王子の婚約者だった」

 前代の第三王子は成人直前に亡くなっている。王か第一王子の身代わりになったということか。


「困ったな。これは王家の者しか知らない秘密なんだ。ということで、ジュディットも王家の一員だね」

 ほんわりと微笑まれても、全く気持ちは和らがないし困惑するだけ。


「ガストンも知っていました。王家の一員ではないと思いますが」

「そ、それは……えーっと。あ、そろそろ到着するよ」

 誤魔化すように笑う王子に、それ以上は何も言えなかった。


     ◆


 ガストンの医術院があった場所とは違い、行き交う人々の多い市場の奥にユベールの店はあった。馬車を降りて平民の多い場所を歩き回ることに危機感はあっても、王子の薬を買いに行く為なのだから仕方ないと諦める。御者と従僕は馬車を警備する為に残った。


 周囲の人間と浮くのではないかという予想は完全に外れた。王子も私も服は砂や泥で汚れていて、完璧な貴族の姿とは程遠い。王子を支えながら、店へとたどり着いた。


 白い石で出来た小さな二階建て。木で出来た扉を開くと、がらんがらんと鉄鈴の音が狭い店内に響く。黒い窓布が掛けられた店の中は暗く、雑多な品物が溢れかえっていた。棚には茶色の瓶が並び、床には壺。乾燥した草花や動物の毛皮が吊るされ、籠には獣脂で出来たロウソクや獣の牙、色とりどりの鉱石が入っている。貴重なものもそうでないものも無造作に置かれていて、混ざり合う光景が興味深い。


 籠の一つには、一昔前に流行したペンダントがいくつも入っていた。色鮮やかな液体が入った小瓶が、花を模したペンダントの中央に嵌められている。当時は貴族女性のみならず平民の女性たちも必ず持っていると言うくらいに売れていた。これはきっと売れ残ったものだろう。


 軋む木の階段を降りてくる音がして、淡い茶色の髪、金茶色の瞳をした男性が姿を見せた。私と同じくらいの年頃だろうか。羽織っている黒いローブが魔術師であることを示している。


「お待たせ致しました。ルシアン様、お久しぶりでございます」

 そう言って男は頭を下げ、王族に対する貴族の礼を完璧にこなす。

「もー、それ辞めてくれって、何度も言ってるだろ?」

 王子が気さくに声を掛け、男は優雅に顔を上げる。


「時々やらないと、忘れてしまいそうなので」

「それでも、王城に戻る気はないんだろ?」

「そのとーり。貴族なんて頭の固い連中と頭の悪い連中ばかりで、ぞっとしますよ」

 大袈裟に肩をすくめた男は魔術師ユベールと名乗った。元は王城で務めていたと聞いて、一度会ったことがあると気が付いた。


「ところで、そちらの女性はどちら様で? 何故か見覚えがあるのですが」

 ユベールが顎に指を当てて首を傾げる。これは是非とも気が付かないで欲しいと、無理矢理微笑みを浮かべてみても無駄だった。


「あぁぁぁぁっ! お前かっ! 俺の恋路を邪魔しやがって!」

「何が恋路ですか! ロザリーヌ様には正式な婚約者がいらっしゃったのです! 阻止して当然!」

 当時の怒りが再燃し、ユベールの叫びに反射的に応じてしまう。王子の目の前と思っても、それとこれとは別。


「あ、あれ? 知り合いなんだ?」

「知り合いじゃねぇ!」

「違います!」

 困惑する王子の問いにきっぱりと同時に答える。ユベールは昔、あろうことか王女に恋文を届け、真実の愛が叶うと言い伝えのある泉の前での待ち合わせを希望していた。突然現れた手紙が王女の手に渡る前に侍女が発見し、相談を受けた私が王女の替わりに泉でユベールと対峙した。


「この男は、当時流行していた恋愛物語と同じ手法でロザリーヌ様を呼び出そうなどと企んだ痴れ者です!」

「だからって、王女に手紙すら渡さないっていうのは、酷すぎるだろ! 俺はあの文章を考えるのに一カ月を費やしたんだ!」


「は? あの文で一カ月? 悪いことは言わないわ。お前に文才はないと断言する!」

 当時は遠慮して言わなかっただけで、夢見る子供が書いたのかと思う下手な恋文だった。私の的確すぎる一言が効いたのか、ユベールはカウンターに突っ伏して動かない。


「えーっと。ユベール? 魔法薬を買いに来たんだけど……おーい」

 王子が指で頭をつついても、ユベールは動かない。


「王子の仰せです。魔法薬を用意して下さい。……何なら、手紙の内容を披露しましょうか?」

 王女に不敬を働いた男に慈悲は不要。さらなる追撃を狙う。

「や、や、やめろっ! 俺の唯一の黒歴史で脅すな!」

 ユベールが顔を上げ、顔を青くして叫ぶ。実は印象的な一文しか覚えていない。余りにも馬鹿過ぎるので記憶に残った。


「楽しそうだねー」

 ほわほわとした王子の笑顔で私もユベールも我に返った。これは貴人の前で行うやり取りではない。


「いやあ、失礼致しました。どの薬でしょうか」

 笑顔を引きつらせたユベールが、王子から薬の名前が書かれた紙を受け取る。ざっと確認すると真剣な面持ちへと変わった。


「すぐに用意致します。むさくるしい部屋ですが、こちらへ」

 ユベールに案内されて、王子を支えながら建物の二階へと上がる。一段上がる度に階段が軋む音を立てるのが恐ろしい。


 案内されたのは私室なのだろう。素朴な木のテーブルに椅子が二つ、奥には一人用のベッドが置かれ、壁面の棚には部厚い革表紙の本が並んでいる。

 王子と私が椅子に座って待っていると、再び階下に降りたユベールが木の盆を持って戻って来た。


「まずはこちらの痛み止め薬を水でお飲みください。ガストンがこの薬を指定したのなら、相当痛みがある傷ですね」

「いやー、そうでもないよ」

 私が毒見をしようとするのは止められ、王子は白く丸い粒を摘まみ口に放り込んで水を飲む。


 ユベールは厳重に鍵を掛けられた鉄の箱を開け、手のひら大の白い布を取り出した。

「こちらは骨の傷を直す薬です。シャツを脱いで下さい」

 骨に傷があるのは脚だと言う前に、王子はシャツを脱いだ。ガストンによって薬が塗られた場所の傷が早くも薄れていて驚く。これなら明日には消え去っているかもしれない。


 白い布を王子の胸の中央に押し当てて、ユベールが呪文を呟く。

「これは……」

 布から淡い水色の光が染み出るようにして王子の体の表面を覆う。呪文は低く高く、まるで歌のように部屋に満ちる。


 ユベールの歌が終わり、水色の光が弾けるように消えた。

「完了しました。どうですか?」

「ありがとう。もう平気だ。痛みも完全に消えた」


 念の為と、ズボンの裾をまくり上げて左脛の包帯を解いて確認すると、赤黒い変色も腫れも綺麗に無くなっていた。素晴らしい効き目だと思う。これだけの治癒ができる魔術師が、何故王城から出てしまったのだろうか。王女への恋文を知っているのは私と侍女だけで、騒ぎにはしなかったのに。


「細かな傷は、一日一度、こちらの薬を塗って下さい」

 ガラス瓶に入った白い塗り薬は、ガストンの使っていた物と同じだった。袋に入れられた薬を受け取り、シャツを着た王子が立ち上がる。


 治癒魔法の後は、極度の集中の為に立ち上がれないと座り込むユベールを置いて、王子と私は店の外へと出た。代金は後日、隠れ家に取りに来るらしい。


「はー。お腹減っちゃったなー。昼もだいぶ過ぎちゃってるし、帰って早めの夕食にしようか」

 何事も無かったかのように、明るく振る舞う王子を見ているのがつらい。

「王子……私は……」

 〝王子妃の指輪〟を嵌める資格はないと言いかけた唇を、王子の指が止める。


「だからね。それは禁止。僕はお腹がすくと、まともな思考ができなくなるんだ。王子の品格が壊れる前に、隠れ家に帰ろう」

 笑う王子に手を引かれ、私は歩き出すしかなかった。

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